目次
次は色欲です。
異性に愛されたい、好かれたいというのは誰でも持つ欲望ですが、これが過ぎると恋愛依存症になってしまったりしますね?
あるいは男性ですと、次から次へと女の人をあさっていくドンファン型になります。
恋愛依存症も、ドンファンも、どちらもその根底には自分を変えたい欲望があるのです。
異性に依存しても自分は変わらないということに、気が付かない限り、なかなかなおらないかもしれませんね。
異性に愛されたい、好かれたいというのは誰でも持つ欲望ですが、これが過ぎると恋愛依存症になってしまったりしますね?
あるいは男性ですと、次から次へと女の人をあさっていくドンファン型になります。
恋愛依存症も、ドンファンも、どちらもその根底には自分を変えたい欲望があるのです。
異性に依存しても自分は変わらないということに、気が付かない限り、なかなかなおらないかもしれませんね。
via pixabay.com
肉体を維持するためには食事は必要です、
しかし、おいしいものが食べたいというグルメになってしまうと、その欲望は果てしなくなっていきます。
贅沢になれると、人はさらに贅沢を求めてしまうのです。
人は自分に心地よいことが好きなのです。
しかし、おいしいものが食べたいというグルメになってしまうと、その欲望は果てしなくなっていきます。
贅沢になれると、人はさらに贅沢を求めてしまうのです。
人は自分に心地よいことが好きなのです。
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五欲についてみてみると、欲望が人を不自由にするものだということがわかりますね。それでは、欲望のない「知足」とはどういう状況をいうのでしょうか?
老子だと「無知無欲」になります。子供のように愚直に生きるさまをいいます。
小賢しさも、知識も、名誉も富も、みななくても平気で、「無為自然」に生きる人を「知足」というのです。
人から馬鹿にされようが、お金をなくしても、平気でいられるような、柔軟で無欲な人間を「知足」というのです。
水のように柔軟ですので、水が低きに流れていくように、貧しくても平気なのです。
老子のこういった考え方は、聖書、マタイ20:16の「~あとのものが先になり、先の者があとになる」にとても似ていますね。
低きところにいる者は高くなり、と老子でも逆転していくのです。
老子だと「無知無欲」になります。子供のように愚直に生きるさまをいいます。
小賢しさも、知識も、名誉も富も、みななくても平気で、「無為自然」に生きる人を「知足」というのです。
人から馬鹿にされようが、お金をなくしても、平気でいられるような、柔軟で無欲な人間を「知足」というのです。
水のように柔軟ですので、水が低きに流れていくように、貧しくても平気なのです。
老子のこういった考え方は、聖書、マタイ20:16の「~あとのものが先になり、先の者があとになる」にとても似ていますね。
低きところにいる者は高くなり、と老子でも逆転していくのです。
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それでは、禅では「道」とはどういうものでしょうか?
「ある時、趙州が南泉に問うた。「道とは何ですか」
南泉「お前の平常心、それが道だ。」
これは禅の公案、無門関に出てくる「平常心是道」です。
南泉「道は知にも属さず、また不知にも属さない。
知は迷いであり、不知は無智である。
疑いの影さえささぬ道に到れば、おまえは、それは
無限に拡がる一大虚空のごときものだと知るであろう。
かぎりなく空で、善悪の入る余地もない。」
とても難しいですが、善悪是非や分別を起こさない心、また、ただの無知でもない心、それが「道」なのです。
善悪のない「空」なのです。そこには無限のエネルギーもあるのです。
「ある時、趙州が南泉に問うた。「道とは何ですか」
南泉「お前の平常心、それが道だ。」
これは禅の公案、無門関に出てくる「平常心是道」です。
南泉「道は知にも属さず、また不知にも属さない。
知は迷いであり、不知は無智である。
疑いの影さえささぬ道に到れば、おまえは、それは
無限に拡がる一大虚空のごときものだと知るであろう。
かぎりなく空で、善悪の入る余地もない。」
とても難しいですが、善悪是非や分別を起こさない心、また、ただの無知でもない心、それが「道」なのです。
善悪のない「空」なのです。そこには無限のエネルギーもあるのです。
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老子では
「道」はつねに無名なり。(道の本来の在り方は名づけようのないものだ)「第32章」
また聖人とは
・・・その無私なるを以てに非ずや、故によくその私を成す(我欲を捨てて、無欲になることが本当の自分を生かすこと)「第7章」
これは聖書の
「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(ルカ17・33)
と同じですね。
是をもって聖人は無為のことにおり、不言の教えを行う(聖人はあくせくせず、無為の立場に身を置き、ことばや概念を振り回して真実から遠ざかることのない「不言」の教訓を実行する)「第2章」
こうした行いが「道」に気が付いた人のありかたとなります。
これは「無名」「無己」「無功」として荘子に引き継がれていきます。
己も、功名も、名(言葉)も否定したところに、真の己も、功名も、名(言葉)の根源にあるものが明らかにされるのだというのが、老荘思想になるのです。
「道」はつねに無名なり。(道の本来の在り方は名づけようのないものだ)「第32章」
また聖人とは
・・・その無私なるを以てに非ずや、故によくその私を成す(我欲を捨てて、無欲になることが本当の自分を生かすこと)「第7章」
これは聖書の
「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(ルカ17・33)
と同じですね。
是をもって聖人は無為のことにおり、不言の教えを行う(聖人はあくせくせず、無為の立場に身を置き、ことばや概念を振り回して真実から遠ざかることのない「不言」の教訓を実行する)「第2章」
こうした行いが「道」に気が付いた人のありかたとなります。
これは「無名」「無己」「無功」として荘子に引き継がれていきます。
己も、功名も、名(言葉)も否定したところに、真の己も、功名も、名(言葉)の根源にあるものが明らかにされるのだというのが、老荘思想になるのです。
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今までお読みになってどうでしょうか?
「吾唯足知」もただの人生訓から、とても深い意味まで持つことがおわかりになったでしょうか?
「吾唯足知」もただの人生訓から、とても深い意味まで持つことがおわかりになったでしょうか?
難しい言葉も知り賢い自分へ!
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東洋、特に中国の古典には「論語」「老荘思想」など優れたものがたくさんありますね。
そうした教養をただのファッションじゃなく、生きたものにするためにはある程度の人生経験が必要になってきます。
最初に読んだときにはよくわからなくても、ある経験をしたときにはじめて「そうだったのか!」とわかることもありますね。
聖書や優れた文学も、「よくわからない」がはじめて「わかる」になったとき、本当の意味での教養が身についたという事になるでしょう。
そのためにも、優れた古典に日頃から親しんでいれば、それがいつか役に立つことがあるのです。
どん底の状況にあったときに、こうした古典の教養によって救われた人は少なくないでしょう。
こうした先人の言葉が誰よりも何よりも、あなたの力強い味方になってくれることに間違いはありません。
こういったことを考えると、優れた古典に親しまないのはとても損失でもあるのです。
古典の優れた解説書は、書店に行けばいくらでもあります。
あなたも是非、座右の銘になるような古典を見つけてみませんか?
そうした教養をただのファッションじゃなく、生きたものにするためにはある程度の人生経験が必要になってきます。
最初に読んだときにはよくわからなくても、ある経験をしたときにはじめて「そうだったのか!」とわかることもありますね。
聖書や優れた文学も、「よくわからない」がはじめて「わかる」になったとき、本当の意味での教養が身についたという事になるでしょう。
そのためにも、優れた古典に日頃から親しんでいれば、それがいつか役に立つことがあるのです。
どん底の状況にあったときに、こうした古典の教養によって救われた人は少なくないでしょう。
こうした先人の言葉が誰よりも何よりも、あなたの力強い味方になってくれることに間違いはありません。
こういったことを考えると、優れた古典に親しまないのはとても損失でもあるのです。
古典の優れた解説書は、書店に行けばいくらでもあります。
あなたも是非、座右の銘になるような古典を見つけてみませんか?
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