目次
- 「真善美」のそれぞれの意味
- 真
- 善
- 美
- 真善美が重視する3つのこと
- 知性
- 意志
- 感性
- 弓道が真善美を大切にしている理由
- 「真」の弓は偽らない
- 「善」は平常心に宿る
- 「美」は真と善の結晶
- 真善美とプラトンの関係性
- プラトンの思想
- イデア論
- 洞窟の比喩
- 真善美とカント哲学の関係性
- カント哲学の「真」
- カント哲学の「善」
- カント哲学の「美」
- 哲学者クーザン
- 新カント学派
- 実際に真善美をモットーにした体験談
- ピアノの道を切り開いてくれた「真善美」
- 健康食品の営業は「真善美」を大切に
- 真善美をモットーとしている有名人
- ユニクロ創業者 柳井正
- 藤原紀香
- 真善美をモチーフにした楽曲
- 真善美/BRAHMAN
- あなたも真善美を大切にしてみませんか
「真善美」のそれぞれの意味
真善美とは、人の究極の理想を実現した最高の状態をいいます。私たち人間は、この真善美を最終目標として生きていくのだと言っても過言ではありません。
しかし、真善美とは一体なんでしょうか。漢字を見れば一応意味は分かりますが、深く意味を読み解いていくと、人はどうあるべきか、どう生きるべきかが見えてきます。
しかし、真善美とは一体なんでしょうか。漢字を見れば一応意味は分かりますが、深く意味を読み解いていくと、人はどうあるべきか、どう生きるべきかが見えてきます。
吾唯足知の意味とは?龍安寺のつくばいと禅との関係も - POUCHS
「吾唯足知」という四文字熟語を見たことはありますか?いったいそれはどういう意味なのでしょうか?この言葉と禅の関係、また禅には他にどんな言葉があるのかをご紹介していきましょう。
真
真(truth)は嘘偽りのないまことであること、本物であること、純粋で混じりけがないということをさし、学問の追求目標とされています。反対の言葉は「偽」です。
真善美の「真」は、認識上の「真」とされています。真理とはなにかを問い詰めると、認識と対象との一致とされます。哲学用語での認識というのは、主観的存在である「人間」が、ある物について考え、その存在を認め、知ることを指します。
真善美の「真」は、認識上の「真」とされています。真理とはなにかを問い詰めると、認識と対象との一致とされます。哲学用語での認識というのは、主観的存在である「人間」が、ある物について考え、その存在を認め、知ることを指します。
その認識が向かう「物」を対象といいます。この対象は客観的なものであり、形ある存在だけではなく、法則のような目には見えない、形には表せないものも含まれます。
つまり、人が自分で考えたことや感じたことが、存在や法則などとぴったり合えば、それは「真」であるとされます。真善美における真は、人間が自らの知性(認識)によって得ることのできた「正しいこと」、「本当のこと」であると言えるでしょう。
つまり、人が自分で考えたことや感じたことが、存在や法則などとぴったり合えば、それは「真」であるとされます。真善美における真は、人間が自らの知性(認識)によって得ることのできた「正しいこと」、「本当のこと」であると言えるでしょう。
善
善(goodness)は、道徳、道義にかなった好ましいおこないをさし、道徳の追求目標とされています。反対の言葉は「悪」です。真善美の「善」は、倫理上の「善」とされています。
倫理は「普遍的に人として守り行うべき道」、もしくは「ある社会において人として守り行うべき道」とされており、前者と後者で意味が多少異なります。後者の意味ですと、何が善なのかは社会規範によって変わってきてしまいます。
倫理は「普遍的に人として守り行うべき道」、もしくは「ある社会において人として守り行うべき道」とされており、前者と後者で意味が多少異なります。後者の意味ですと、何が善なのかは社会規範によって変わってきてしまいます。
例えば、肉親を殺されたときに復讐するのが良い行いとされる国、時代はありますが、現代の日本では悪い行い(犯罪)となってしまいます。
社会的規範の善をただ飲み込むのではなく、普遍的な善とは何かについて、自分の意志をしっかり持って追求することが、真の「善」をなし得るのに大切なのかもしれません。
社会的規範の善をただ飲み込むのではなく、普遍的な善とは何かについて、自分の意志をしっかり持って追求することが、真の「善」をなし得るのに大切なのかもしれません。
美
美(beauty)は、視覚をはじめとした感覚から得られる喜び、快楽を引き起こすもので、芸術の追求目標とされています。反対の言葉は「醜」です。
真善美における「美」は「審美上の美」とされています。「審美」というのは、きれいな花や景色といった、外観的な美しさの他に、そのものが持つ本質的な美しさを的確に見極めることをさします。
真理が人の知的活動によって得られるものであるのに対し、美は人の精神的活動によって得られるものです。人の働きかけによってあるものの本質が分かるという点では、真と美は似ていると言えるでしょう。
真善美における「美」は「審美上の美」とされています。「審美」というのは、きれいな花や景色といった、外観的な美しさの他に、そのものが持つ本質的な美しさを的確に見極めることをさします。
真理が人の知的活動によって得られるものであるのに対し、美は人の精神的活動によって得られるものです。人の働きかけによってあるものの本質が分かるという点では、真と美は似ていると言えるでしょう。
真善美が重視する3つのこと
人間の永久不変の理想とされる真善美ですが、その理想に近づくためには一体どうすればいいのでしょうか。古代から中世のヨーロッパでは、「知性」、「意志」、「感性」のそれぞれに対する超越的対象が真善美であるとされていました。
つまり、知性や意志や感性を磨くことによって最終的に行きつく究極のゴールが真善美です。知性は真、意志は善、感性は美を対象としていますが、知性と意志と感性の全ての要素が絡み合ってこそ、真善美を達成できるのかもしれません。一つ一つの要素とお互いの関わり合いを詳しく見ていきましょう。
つまり、知性や意志や感性を磨くことによって最終的に行きつく究極のゴールが真善美です。知性は真、意志は善、感性は美を対象としていますが、知性と意志と感性の全ての要素が絡み合ってこそ、真善美を達成できるのかもしれません。一つ一つの要素とお互いの関わり合いを詳しく見ていきましょう。
知性
知性は真善美の「真」に到達するために大切な要素です。人は知性によってある物の存在や法則を仮定し、それが事実であることを証明するために思考し、実験や研究をおこない、絶対的な根拠からゆるぎない真理を見出します。
知性によって物事を分析していくに当たって、ある物の存在や法則を見出す感性や、物事を成し遂げる強い意志も必要となります。知性という太い柱を支える意志や感性があって初めて、知性の究極的なゴールと言える真理に到達できるのだと言えます。
知性によって物事を分析していくに当たって、ある物の存在や法則を見出す感性や、物事を成し遂げる強い意志も必要となります。知性という太い柱を支える意志や感性があって初めて、知性の究極的なゴールと言える真理に到達できるのだと言えます。
意志
意志は「真善美」の「善」をつきつめるために必要です。倒れている人がいた時に取る行動を例に挙げて説明しましょう。善悪で言うと、倒れている人を助けることが善に決まっていることは誰でも分かっています。
しかし、「怖い」、「面倒くさい」と思って逃げてしまう人もいます。善のために勇気を出して行動する意志、実践する能力が、善を追求のにはとても大切です。
また、善をなすためには何が善なるかを考えるための知性と、自分本位にならず、他の人や社会の立場に立って物事をとらえる感性も必要です。知性と感性を土台とした意志の力によって、善という究極的なゴールにたどり着くことができるのです。
しかし、「怖い」、「面倒くさい」と思って逃げてしまう人もいます。善のために勇気を出して行動する意志、実践する能力が、善を追求のにはとても大切です。
また、善をなすためには何が善なるかを考えるための知性と、自分本位にならず、他の人や社会の立場に立って物事をとらえる感性も必要です。知性と感性を土台とした意志の力によって、善という究極的なゴールにたどり着くことができるのです。
感性
感性は真善美の「美」を見極めるために必要です。美しいものを美しいと感動する気持ちももちろん大切ですが、そのものの本質の美を見抜く力を持つには、豊かな感性がなくてはなりません。また、見た目が美しいものだけではなく、行動や中身が美しいものを美しいと感じるためにも、感性が大切になります。
自分自身の感性で美しさを感じ取り、普遍的な美しさを持つものとしてその対象をとらえるためには、知性と意志の力が必要となります。知性や意志に裏打ちされた豊かな感性が、美という究極のゴールに架けられる橋になると言えます。
自分自身の感性で美しさを感じ取り、普遍的な美しさを持つものとしてその対象をとらえるためには、知性と意志の力が必要となります。知性や意志に裏打ちされた豊かな感性が、美という究極のゴールに架けられる橋になると言えます。
弓道が真善美を大切にしている理由
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