2019年8月16日 更新

神風特攻隊の遺書!家族に宛てた若き特攻隊員の想い 【海外の反応も】

神風特攻隊員が家族や恋人、婚約者に宛てた遺書には、どのような想いが綴られていたのでしょうか。戦争には若き特攻隊員の命とともに散った人生、そしてドラマがありました。特攻は洗脳か、愛する者たちを守るための自己犠牲だったのか、海外の反応と併せてご紹介します。

父への手紙

観点 銀行 木製のベンチ - Pixabayの無料写真 (549401)

御父上様 なんらの孝養すらできずに散らねばならなかった私の運命をお許しください。急に特攻隊員を命ぜられ、いよいよ本日沖縄の海へ向けて出発いたします。(中略)必ずやります。それらの人々に向かって私はそう叫ばずにはいられません。(中略)

私は国体を信じ愛し美しいものと思うが故に、政治家や統帥の補弼者たちの命に奉じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。(中略)
歩行 雨 傘 - Pixabayの無料写真 (558088)

父上への最大の不幸は、父上を一度も父上と呼ばなかったことです。しかし私は最初にして最後の父様を、突入寸前口にしようと思います。人間の幼稚な感覚は、それを父上にお伝えすることはできませんが、突入の日に生涯を込めた声で父上を呼んだことだけは忘れないでください。(中略)

 歴史の磋鉄てつは民族の滅亡ではありません。父上立ちの長命を御祈り致します。必ず新しい日本が訪れるはずです。国民は死を急いではなりません。ではご機嫌よう。輝夫 出発前 「名をも身をもさらに惜しまず もののふは 守り果さむ 大和島根を」

山口輝夫少尉は1945年(昭和20年)6月21日、沖縄周辺洋上にて戦死しました。亨年23歳でした。沖縄の海に散華した息子を想い、父として、たとえ人前ではこらえても、一人飲む酒に涙を落としたこともあったでしょう。戦争は家族の胸に計り知れない悲しみを残しました。

母への手紙

母 娘 愛 - Pixabayの無料写真 (549007)

相花信夫が義理の母へ宛てた遺書をご紹介します。信夫は2人兄弟の次男で、兄もまた軍人でした。信夫が6歳のころ父が再婚をしましたが、生母が恋しい信夫と兄は義理の母に懐かず、乱暴な言葉も使っていました。義理の母を「お母さん」と呼んだことすらありません。

それでも義理の母は、兄弟に深い愛情を注いで実の子のように育てたのです。世間で言われるような、継母によるいじめなど全くありませんでした。それほどまでに献身的に育ててくれた義理の母に、兄弟は想ってはいても「お母さん」と呼べずに反抗的だったのです。

特攻するにあたり、信夫が義理の母に宛てた遺書から、義理の母に対して言葉にできなかった深い想いが伝わってきます。
サンセット 子 母 - Pixabayの無料画像 (557659)

母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった

ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
via 知覧特別攻撃隊 村永薫編集 ジャプランブックス 1989年刊
引用文献:知覧特別攻撃隊 村永薫編集 ジャプランブックス 1989年刊
聖母マリア 彫像 - Pixabayの無料写真 (557652)

信夫は1945年(昭和20年)5月4日、知覧を飛び立ち散華しました。信夫の遺書を受け取った護衛機の飛行兵は、「義理のお母さんに遺書を渡したとき、涙が止まらなかった」と話しています。手紙の中とはいえ、信夫に初めて「お母さん」と呼ばれたとき、母を尊び心から慕う気持ちに触れ、さぞ嬉しかったことでしょう。

しかし、信夫から送られた「お母さん」の言葉を初めて目にしたとき、信夫は既にこの世にはいなかったのです。相花信夫、第77振武隊、享年18歳でした。(最終階級は少尉)

両親や家族への手紙

ビーチ 女性 夏 - Pixabayの無料写真 (555571)

夫の特攻志願を叶えるために、入水自殺をした妻子もいます。藤井一中尉はとても厳しい飛行学校の教官でしたが、生徒に慕われる人物でもありました。藤井は特攻作戦が採用される前から軍人の心構えとして、「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長(俺)もかならず行く」と何度も生徒に言っていたのです。

特攻作戦が採用されるようになると、藤井が育てた生徒は次々と特攻作戦に出撃していきました。「生徒との約束は果たさなければならない」と2度に渡り特攻に志願しましたが、妻と2人の幼い子どもを抱え、飛行学校でも重要な職務に着いていたため、藤井の志願は聞き届けられませんでした。

しかも藤井は左手の怪我が元で操縦桿を握れないばかりか、パイロットではありません。夫である藤井の苦悩を察したふく子(24歳)は、次女の千恵子(1歳)を背負い、長女の一子(1歳)の手と自分の手を紐で結ぶと、荒川へと身を沈めていきました。藤井へ宛てたふく子の遺書が残されています。
私達がいたのではこの世の未練になり,思う存分の活躍が出来ないでしょうから,一足お先に逝って待っています
出典:知覧特攻平和会館 遺書・手紙 藤井一少佐
天使 天使図 彫刻 - Pixabayの無料写真 (557680)

1944年(昭和19年)12月15日の朝、晴れ着を着せた千恵子を背負い、ふく子の手と一子の手を紐で結んだ遺体が発見されました。妻子の死を知った藤井は小指を切って血書嘆願とし、上層部に3度めの特攻志願を強く申し出たのです。

我が子を道連れに入水自殺をした妻ふく子の覚悟と、藤井の強い気持ちを認めざるを得ません。1950年(昭和25年)5月28日、藤井は小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗しました。陸軍特別攻撃隊第45振武隊の隊長として、「我、突入する」の電信を送ったあと10名の特攻隊員とともに沖縄の海に散華したのです。

ふく子と幼い娘2人が逝ってから5ヶ月後のことであり、終戦のわずか2ヶ月半前のことでした。藤井一中尉(戦死後の階級は少佐)享年29歳です。出撃に当たり藤井は、自分のために先に逝った幼すぎる2人の娘に手紙をしたためています。
ビーチ 自由 地平線 - Pixabayの無料写真 (555588)

冷(ひ)え十二月の風の吹き荒(すさ)ぶ日 
荒川(あらかわ)の河原の露(つゆ)と消(きえ)し命。母と共に殉国(じゅんこく)の血に燃ゆる父の意志に添つ(っ)て,一足先き(さき)に父に殉じた哀れにも悲しい,然(しか)も笑つ(っ)てゐ(い)る如(ごと)く喜んで,母と共に消え去つ(っ)た幼ひ(い)命がいとほ(お)しい
父も近く御前達(おまえたち)の後を追つ(っ)て行けることだろう
嫌がらずに今度は父の膝(ひざ)に懐(ふところ)で,だつ(っ)こして寝(ね)んねしようね 
それまで泣かずに待つ(っ)てゐ(い)て下さい 
千惠子(ちえこ)ちゃんが泣いたらよく御守(おもり)しなさい 
では暫(しばら)く左様(さよう)なら 
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立てゝ(て)御土産(おみやげ)にして参(まい)ります。
では,一子ちやん(かずこちゃん)も,千惠子ちやん(ちえこちゃん)もそれまで待つ(っ)てゝ(て)頂戴(ちょうだい)。
出典:知覧特攻平和記念館 遺書・手紙 藤井一少佐
自然 鳥 動物相 - Pixabayの無料写真 (560189)

アメリカ海軍の空母バンカーヒルに特攻をして、大きな戦果を挙げた特攻隊員・小川清大尉が両親に宛てた遺書をご紹介します。1945年(昭和20年)5月11日、南西諸島沖東方にて零戦52型の1機目がバンカーヒルの飛行甲板に特攻をしました。

続いて2機目が突入を開始し、搭載していた爆弾を投下して飛行甲板に大穴を開けています。この2機目を操縦していたのが小川です。爆弾を投下した小川は旋回をすると、今度は艦橋に向けて急降下で再突入をしたのです。突入した場所は艦橋の搭乗員待機室であり、アメリカ軍のパイロット45名が即死しています。

零戦2機の特攻により、バンカーヒルは392名の戦死行方不明者を出し、負傷者は294名、搭載していた艦載機のほとんどを失いました。小川の急降下を目撃したアメリカ兵は、「2度と機首を上げる気など全くない急降下だった」と話しています。甚大な被害を被ったバンカーヒルは、終戦まで修復されていません。小川清、享年22歳でした。(最終階級・大尉)
真珠湾 船 軍艦 - Pixabayの無料写真 (560214)

父母上様

お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活を過ごした者は外に無いと信じ、このご恩を君と父に返す覚悟です。

あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。父母様もこの私の為に喜んで下さい。殊に母上様にはご健康に注意されお暮らし下さる様、なお又、皆々様のご繁栄を祈ります。

清は靖國神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。
靖國神社 1987年(昭和62年)5月 社頭掲示

特攻隊の遺書を本で読む

Book Read Old - Free photo on Pixabay (563509)

特攻隊員について紹介されている本を3冊ご紹介します。本には特攻隊員の写真や遺書・遺品のほか、特攻に突き進んだ経緯なども詳しく紹介されています。紹介する3冊は、歴史的な資料としても価値のある内容です。

知覧からの手紙

テキスト、 手紙 古い - Pixabayの無料写真 (548616)

「婚約者への手紙(穴澤利夫大尉)」でご紹介した利夫の婚約者・智恵子が、戦後62年の時を経てその想いを語りました。あの時代に芽生えた愛の形と、果たされなかった愛の現実を追ったノンフィクションです。

利夫は「自分は過去の人間である。自分のことは忘れて君は未来に生きるのだ」と智恵子を諭しながらも、「智恵子、会ひたい、話したい、無性に」と本心も語り、死を目前にした苦悩が伝わってきます。戦争が許さなかった愛に、智恵子は何を思いながら生きたのでしょうか。

智恵子は利夫が贈った最後の言葉、「明るく朗らかに」を絶望から抜けて未来へ歩む支えにしました。「知覧からの手紙」は、「純粋に生きる」ということを教えてくれます。

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