2019年8月16日 更新

神風特攻隊の遺書!家族に宛てた若き特攻隊員の想い 【海外の反応も】

神風特攻隊員が家族や恋人、婚約者に宛てた遺書には、どのような想いが綴られていたのでしょうか。戦争には若き特攻隊員の命とともに散った人生、そしてドラマがありました。特攻は洗脳か、愛する者たちを守るための自己犠牲だったのか、海外の反応と併せてご紹介します。

死 暗闇の中 暗い - Pixabayの無料写真 (553115)

また、神風特攻隊をプロパガンダに利用している人もいます。プロパガンダに利用する人は、特攻隊をイスラムによる自爆テロと同一に語るのです。そして、特攻隊を狂気と語る欧米人の多くは、無差別大量虐殺の原爆を肯定しています。特攻隊だけが狂気のように語る人もいますが、戦争そのものが狂気なのです。

特攻隊員の祖国を憂(うれ)えるただ一途で、ひたむきで、純真な精神を否定すること、遺体の一部を持ち帰ることなど、散華していった若者たちへの冒涜のほかないでしょう。

戦争の悲惨さと平和の重たさを感じた

彫刻 像 ピエール - Pixabayの無料写真 (549030)

神風特攻隊と同列に語られることに広島と長崎に落とされた原爆があります。神風特攻隊は人命を軽視した作戦と言われますが、人命を軽視したと言うなら無差別大量虐殺の原爆はそれ以上です。ただ、どちらにも言えるのは、尊い命を犠牲にしたと言うことです。

今の時代に特攻作戦や原爆攻撃を指示したなら、世界中から強烈な批判を受けるでしょう。敵兵の命を奪う武器でさえも人道を考慮されてきています。神風特攻隊の記録フィルムを見てその覚悟と凄惨な状況に衝撃を受け、特攻隊員の遺書に落涙し、平和な時代に生きることの幸せを改めて認識させられた外国人も多いのです。

恋人や家族との別れを思うと想像を絶する

女性 孤独 悲しみ - Pixabayの無料写真 (548952)

「特攻で死んでいった若者、彼らの家族や友人、妻や子どものことを思うと悲しい」という海外の反応を見る人もいるでしょう。国や文化と価値観が違っていても、愛する者を尊ぶ気持ちは万国共通です。父や母が子を想う気持ち、子が父や母を想う気持ちに国による違いはありません。

特攻は永遠の別れです。思い出が哀しみを慰めてくれるのは、長い年月が経ってからでしょう。それまでは、想い出が心に突き刺さって哀しみから抜け出せないのです。宗教や生死の考え方は違えども、愛する者との命の別れを思い、衝撃を隠せないという外国人の姿もあります。

特攻隊員たちの覚悟と悲しみを知った

航空機 第二次世界大戦 愛知県 - Pixabayの無料写真 (548940)

17歳の特攻隊員が、子犬を抱いている有名な写真があります。その写真は出撃の2時間前に撮られた写真でした。ほかに18歳の若者4名と一緒に撮られていますが、みんな笑顔を見せています。出撃の2時間前に子犬を抱いて笑っている少年特攻隊員を見た海外の人たちは、それぞれに大きな衝撃を受けました。

「彼らを愚かだなんて誰が言えるんだ」「彼らが示した勇気は、日本にとって価値のあるものだ」「特攻隊員は皆、ただひたむきに、母国のために命を捧げた」「若くして死んでいった特攻隊員の人生は、桜そのものじゃないか」「心を揺さぶられる。祖国のために殉じる彼らの精神力は本物で、とても勇敢だった」

「なんて気高い人たちなんだ。もう涙が止まらない。これこそが武士道の精神なのか」国、父母、妻、子ども、恋人、大切なもの、大切な人を守るため、出撃する少年たちが死を前にして見せた純真で穏やかな笑顔に、心を大きく揺さぶられたようです。

ただ涙があふれるばかりだ

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海外の反応には特攻隊員の遺書に触れ、「特攻作戦は狂気的だが、若者たちの犠牲には敬意を払うべきだ」との声もあり、特攻隊に対する見方に変化が見られるようになりました。これまでは一方的に洗脳とか狂気と言われてきましたが、戦争と特攻の中に見える狂気と正気を語られるようになってきたのです。

海外から自殺戦法と批判された特攻も隊員の遺書に触れ、彼らが何を想い特攻に志願をしたのか、何のために死にに行くのかを理解する外国人も増えてきました。特攻隊員を我が身に置き換えて考える人も多いようです。

「『春に咲く桜のように私も散りたい』という特攻隊員の言葉を聞いたとき、その純粋な想いに心が震えた」と話すアメリカ人もいます。

特攻隊員たちの遺書の内容

女の子 Rugaminte 悲しみ - Pixabayの無料写真 (548989)

自ら選んだ死を目前にして、人は何を想うのでしょうか。気概と覚悟を綴った遺書には、特攻隊員たちが生への執着を断ち切ろうとする苦悩も見えてきます。妻や子ども、年老いた両親や病気の母を残して逝く心残りも伝わってきます。遠い昔に語られた物語ではありません。遺書には真実のヒューマンドラマがあるのです。

婚約者への手紙(穴澤利夫大尉)

古い手紙 肖像画 古い - Pixabayの無料写真 (548620)

今は徒(いたずら)に過去に於(お)ける長い交際のあとをたどり度(た)くない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与へ(え)て進ませて呉(く)れることと信ずる。然(しか)し,それとは別個に婚約をしてあった男性として,散って行く男子として,女性であるあなたに少し言って征(ゆ)き度(た)い。

「あなたの幸せを希ふ(ねがう)以外に何物もない」
「徒(いたずら)に過去の小義(しょうぎ)に拘(こだわ)る勿(なか)れ。あなたは過去に生きるのではない」
「勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面(しんかつめん)を見出すこと」

「あなたは,今後の一時(いっとき)一時(いっとき)の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」

極(きわ)めて抽象的(ちゅうしょうてき)に流れたかもしれぬが,将来生起(せいき)する具体的な場面々々(ばめんばめん)に活(い)かして呉(く)れる様(よう),自分勝手な,一方的な言葉ではない積(つも)りである。純客観的(じゅんきゃっかんてき)な立場に立って言ふ(う)のである。

当地(とうち)は既(すで)に桜も散り果てた。大好きな嫩葉(わかば)の候(こう)が此処(ここ)へは直(じき)きに訪れることだらふ(う)。今更何を言ふ(う)か,と自分でも考へ(え)るが,ちょっぴり慾(よく)を言って見たい。
•智恵子(ちえこ) 会ひ度い(あいたい),話し度い(はなしたい),無性に(むしょうに)。

今後は明るく朗(ほが)らかに。自分も負けずに,朗(ほが)らかに笑って征(ゆ)く。
利夫(としお)
智恵子様(ちえこさま)
出典:知覧特攻平和会館 遺書・手紙類 穴澤利夫大尉
飛行機 エアーショー 空 - Pixabayの無料写真 (549143)

これは、特攻隊員の穴澤が婚約者の智恵子に送った遺書です。穴澤は智恵子の「私は神聖な帽子や剣にはなれません。しかし、もし替われるなら、あの白いマフラーになり、いつも側にいたい」という一途な思いに応え、智恵子の身代わりとして白いマフラーを首に巻き、出撃していきました。

1945(昭和20年)4月12日、穴澤利夫大尉は第20振武隊の特攻隊員として一式戦闘機隼で知覧から出撃し、戦死しています。享年23歳でした。智恵子が穴澤からの遺書を受け取ったのは、穴澤の戦死から4日後のことです。

子供への手紙(久野正憲)カタカナの遺書

赤ちゃん 涙 肖像画 - Pixabayの無料写真 (549000)

正憲 紀代子へ
父ハ スガタコソミエザルモ イツデモオマヘタチヲ見テイル。ヨクオカアサンノイヒツケヲマモツテオカアサンニ シンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオオキクナツタナレバヂブンノスキナミチニススミ リッパナニッポンヂンニナルコトデス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。「マサノリ」、「キヨコ」 ノオトウサンハ、カミサマニナツテフタリヲヂット見テヰマス。フタリナカヨク ベンキョウヲシテオカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトウサンハ「マサノリ」、「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケレドモフタリナカヨク シナサイヨ。オトウサンハオオキナ ヂュウバクニノッテ、テキヲゼンブ ヤッツケタ、ゲンキナヒトデス オトウサンニ マケナイヒトニ ナツテ、オトウサンノカタキヲウツテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ キヨコ フタリヘ
出典:知覧特攻平和記念館 遺書・手紙 久野正信中佐
小さな女の子 祈り 人 - Pixabayの無料写真 (549986)

正憲(まさのり) 紀代子(きよこ)へ
父は姿こそ見えざるも いつでもお前たちを見ている。 よくお母さんの言いつけを守って お母さんに心配をかけないようにしなさい。 そして大きくなったなれば自分の好きな道に進み りっぱな日本人になることです。 人のお父さんを羨(うらや)んではいけませんよ。 「まさのり」「きよこ」のお父さんは 神様になって二人をじっと見ています。 二人仲良く 勉強をして お母さんの仕事を手伝いなさい。 お父さんは「まさのり」「きよこ」の お馬さんにはなれませんけれども 二人仲良くしなさいよ。 お父さんは 大きな 重爆(じゅうばく)に乗って 敵(てき)を全部やっつけた 元気な人です お父さんに負けない人になって お父さんの仇(かたき)を討(う)ってください。
父より
まさのり きよこ 二人へ

出典:知覧特攻平和記念館 遺書・手紙 久野正信中佐
空中戦 戦争 軍事 - Pixabayの無料写真 (549981)

久野正信中佐には、5歳の息子と3歳の娘の2人の子どもがいました。2人の子どもはまだ幼いため字が読めません。現代は小学校に入学をすると最初にひらがなを習いますが、当時、最初に習う文字はカタカナでした。そのため久野は、子どもたちができるだけ早く読めるようにとカタカナの遺書を残したのです。

久のは息子の将来の晴れ姿や、娘の嫁入りを思い描いていたでしょう。そして、幸せだったに違いありません。久野正信は1945年(昭和20年)5月24日、97式重爆撃機に登場し健軍を飛び立ち、戦死しました。享年29歳でした。

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