2019年9月5日 更新

「芸術は爆発だ」という名言の意味は?岡本太郎の来歴やその他名言も

芸術家の岡本太郎をご存知でしょうか?岡本太郎を知らなくても「芸術は爆発だ」という名言は聞いた事があるかもしれませんね。これから、岡本太郎の経歴や作品、名言などについて紹介していきます。興味を持ち、実際に作品を見に行くきっかけになったら幸いです。

Armageddon Disaster Destruction - Free photo on Pixabay (585522)

「第二次世界大戦」始まったので、が岡本太郎の運命が大きく変わる事になります。芸術家としての道を順調に進んでいたのですが、ナチスドイツのパリ侵略で、帰国をしなければならない状態になったのです。日本に帰国後は、延期にしていた徴兵検査を通り徴兵される事になりました。

配属先は中国の湖北省にある応城という街でした。そこで、自動車部隊として物資の輸送などの任務に就きました。岡本太郎は欧州帰りの自由主義者と思われていたので、規律の厳しい中隊に配属され、厳しい訓練を受けたそうです。やがて戦争が終わり日本へ帰国する事になりました。しかし残念ながら、戦火により自宅に残してきた作品の多くは消失してしまったようです。

「夜の会」結成

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20世紀は様々な国の芸術にアヴァンギャルドや前衛の波が押し寄せていました。日本でも数多くの前衛芸術グループが誕生したようです。岡本太郎は、1947年に花田清輝らと「夜の会」を結成しました。そこで岡本太郎は、前衛美術運動を始めたのです。この「夜の会」という名前には由来があります。

岡本太郎が1946年に第32回二科展に出展した「夜」という作品から名前をとったのです。敗戦の悲しみの残った日本で、岡本太郎は精力的に活動していきました。

メキシコ時代

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岡本太郎は、メキシコシティの建築中のホテルからの依頼を受け、1968年〜1969年にかけて壁画を製作しました。それが「明日の神話」です。その壁画を作るために、岡本太郎は度々メキシコに向かっていました。しかし、「明日の神話」が完成する頃にホテルの経営状況が悪化してしまいます。ホテルが人手に渡ってしまうと、壁画も同時に経営者の手から離れてしまいました。そして、次第に「明日の神話」は行方不明になってしまったのです。

また、岡本太郎はメキシコに訪れた際に「メキシコ壁画運動」に大きな影響を受けたと言われています。この「メキシコ壁画運動」とは、メキシコ人のルーツや革命の意義を壁に描いて伝えたという活動です。文字が読めない人にも内容が分かるように配慮したのでしょう。その壁画の数々は、今でもメキシコシティの様々な場所で見ることができます。

太陽の塔制作

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岡本太郎は、大阪万博博覧会に展示される目玉として「太陽の塔」を製作しました。この万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。岡本太郎はこのテーマに納得していなかったようです。実際の大阪万博博覧会では、「太陽の塔」は丹下健三(日本建築界の巨匠)が設計した大きな屋根から突き出る形で設置されました。

岡本太郎が丹下健三の作った大屋根を見て、「調和なんて卑しい、本当にぶつかり合わなければ調和など生まれない」と言ってあえて大屋根を突き出る形にしたのです。そして、大阪万博博覧会終了後も「太陽の塔」は永久保存される事になりました。

また、2018年3月には長い時を経て、「太陽の塔」の内部公開が始まりました。大阪万博博覧会で展示されていたものを再現したという事で大きな話題になりました。入場チケットは即完売となったようです。

バラエティ番組出演

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1950年代からから岡本太郎は、バラエティ番組やクイズ番組に出演するようになります。そして、その大胆な発言や不思議な物言いから人気に火がつきました。日本テレビのバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」では、「何だこれは!」「芸術は爆発だ!」といったお決まりのフレーズが生まれ流行語にもなりました。

岡本太郎は、この時に共演した片岡鶴太郎の芸術の才能も見出していたようです。その後の1970年代以降、岡本太郎は個性的なキャラクターだったので様々なCMにも出演していきました。

1996年死去

Bagan Myanmar Burma - Free photo on Pixabay (585536)

1996年に、岡本太郎はパーキンソン病による急性呼吸不全により満84歳で死去しました。亡くなった場所は慶應義塾大学病院でした。死後、葬儀は行われず「岡本太郎と語る広場」が開かれました。この催しをお別れの場にしたのです。「岡本太郎と語る広場」には、彼が残した絵画が数多く展示されていたと言います。

岡本太郎のお墓には、養女の岡本敏子が墓石として選んだ岡本太郎の作品「午後の日」が飾ってあります。お墓の墓石まで、岡本太郎らしさが溢れています。

岡本太郎没後の動き

Clock Alarm Watch - Free photo on Pixabay (585537)

岡本太郎の没後にはどのような動きがあったのでしょうか。これから、5つの没後の動きを紹介していきます。没後にも世の中では岡本太郎関連の動きが数多くあったのです。それだけ、岡本太郎には影響力があったのでしょう。

1998年:岡本太郎記念館公開

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岡本太郎は生前、自身が生まれた川崎市に沢山の作品を寄贈していました。川崎市は1998年に、「川崎市岡本太郎美術館」を開設し多くの作品を展示しました。また、青山の自宅兼アトリエだった場所も、現在は「岡本太郎記念館」として公開されています。

岡本太郎の死後も、彼の作品を見たいという人は沢山いるのでしょう。また、岡本太郎が残した数多くの書籍も多くの人の心を掴み愛され続けています。そして、本を読んでいる誰かの悩める心に、岡本太郎の言葉は今も寄り添い続けているようです。

2003年:明日の神話発見

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2003年に、長らく行方不明になっていた岡本太郎の作品「明日の神話」が発見されました。メキシコの資材置き場で見つかったのです。なんと30年以上の年月を経て、壁画は日本に輸送される事となりました。

日本に到着した「明日の神話」は、汐留日テレプラザで一般公開されました。その後、京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置されたようです。そのため、現在は誰でも見ることのできるパブリックアートとなり、京王井の頭線渋谷駅連絡通路の空間の魅力を高める役割を担っています。そして、せわしなく動き続ける現代人達を、見守っているように見えます。

2011年:生誕100年 岡本太郎展開催

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2011年には、「生誕100年 岡本太郎展」が開催されました。2011年は岡本太郎生誕100年にあたるので、展示が開かれたのです。岡本太郎が芸術で目指したものの意義を探るような内容の展示になっていたと言われています。

生前の岡本太郎は、既成の価値観に否を突きつけていました。岡本太郎を再評価するために、ただ受け身で元気をもらうために展示に行くのではなく、現代の自分達にも彼から批判の目が向けられているだろうと意識させるような内容の展示となっていました。

2013年:岡本太郎のシャーマニズム展開催

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