目次
- 「芸術は爆発だ」の名言を残した岡本太郎とは
- 「芸術は爆発だ」の意味とは
- 岡本太郎について
- プロフィール
- 代表作
- 人物
- 岡本太郎の来歴
- 少年時代~美術大進学
- パリでのピカソとの出会い
- 兵役と戦後
- 「夜の会」結成
- メキシコ時代
- 太陽の塔制作
- バラエティ番組出演
- 1996年死去
- 岡本太郎没後の動き
- 1998年:岡本太郎記念館公開
- 2003年:明日の神話発見
- 2011年:生誕100年 岡本太郎展開催
- 2013年:岡本太郎のシャーマニズム展開催
- 2014年:岡本太郎と潜在的イメージ展開催
- 岡本太郎に影響を与えた芸術家
- 岡本一平
- 岡本かの子
- マルセル・モース
- パブロ・ピカソ
- ミルチャ・エリアーデ
- ディエゴ・リベラ
- ダビッド・アルファロ・シケイロス
- 岡本太郎の残したその他の名言
- 「職業は人間」
- 「芸術は呪術だ」
- 「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」
- 岡本太郎を知る為のおすすめの本
- 「自分の中に毒を持て」
- 「今日の芸術: 時代を創造するものは誰か」
- 「芸術という生き方」
- 岡本太郎を知って芸術に触れよう
「芸術は爆発だ」の名言を残した岡本太郎とは
via pixabay.com
岡本太郎は日本を代表する有名な画家です。彼の作品には、奇抜な色彩の絵画や奇妙な形のオブジェなど、一度見ると頭に強く印象に残るような物が数多く存在します。また、大阪万博の「太陽の塔」を作製した事でも世に大きなインパクトを与えたものです。
数多くの作品や、有名な名言「芸術は爆発だ」を世に残した岡本太郎とはどんな人間だったのでしょうか。これから、岡本太郎の来歴や没後の動きなどについて紹介していきます。読んでみて、岡本太郎の魅力を感じて頂けたら幸いです。
数多くの作品や、有名な名言「芸術は爆発だ」を世に残した岡本太郎とはどんな人間だったのでしょうか。これから、岡本太郎の来歴や没後の動きなどについて紹介していきます。読んでみて、岡本太郎の魅力を感じて頂けたら幸いです。
合わせて、「様式美の意味と使い方は?様式美のお約束とメタルにおける様式美とは」も確認しておくと良いでしょう。様式美について詳しく知る事で、芸術に対する見方を深める事ができます。
様式美の意味と使い方は?様式美のお約束とメタルにおける様式美とは - POUCHS(ポーチス)
芸術分野をはじめ、幅広い分野で使われている様式美。でも、その意味や使い方を正しく理解している人は少ないのではないでしょうか?この記事では、様式美の意味や使い方、様式美のお約束やメタルにおける様式美など、様式美について詳しく解説しています。
「芸術は爆発だ」の意味とは
via pixabay.com
「芸術は爆発だ」という言葉だけを聞くと、攻撃的な感じや血などの物騒なイメージを持つ人もいるのではないでしょうか。しかし、実際にはそんなイメージとは異なる内容を岡本太郎は伝えていたのです。「芸術は爆発だ」とは、全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッと開く事なのだと過去に語っていました。
また、人間の本来の生き方についても岡本太郎は話していました。人生は本来、瞬間瞬間に無償、無目的に爆発し続けるべきだと言っていたのです。これらの言葉から。岡本太郎は生き方に強い信念を持っていた事が伝わってきます。
また、人間の本来の生き方についても岡本太郎は話していました。人生は本来、瞬間瞬間に無償、無目的に爆発し続けるべきだと言っていたのです。これらの言葉から。岡本太郎は生き方に強い信念を持っていた事が伝わってきます。
岡本太郎について
via pixabay.com
「芸術は爆発だ」という名言だけを知っていても、実際の岡本太郎がどんな人だったか知っている人は少ないのではないでしょうか。これから、岡本太郎のプロフィール、代表作、人物についてを紹介していくので確認してみましょう。
プロフィール
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岡本太郎は1911年に、東京で生まれました。父親は岡本一平、母親はかの子です。岡本太郎は、東京美術大学に入学していた経歴があります。また、両親の渡欧に付いていき1930年からパリに住みました。そこで数々の芸術活動に参加しつつも、パリ大で社会学、哲学、民俗学を専攻し勉学に励んだようです。
その後、帰国すると兵役し復員します。復員後に創作活動を再開して、現代芸術家として数々の話題作を発表していきました。1970年の大阪万博博覧会のテーマ館をプロデュースしたり、意欲的に執筆活動をしていきました。また、テレビ出演などもしていた時期があります。
その後、帰国すると兵役し復員します。復員後に創作活動を再開して、現代芸術家として数々の話題作を発表していきました。1970年の大阪万博博覧会のテーマ館をプロデュースしたり、意欲的に執筆活動をしていきました。また、テレビ出演などもしていた時期があります。
代表作
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数多くの作品を残した岡本太郎ですが、その中でも特に有名なのは「太陽の塔」ではないでしょうか。この「太陽の塔」は、高さが70メートルの巨大な作品です。現在も万博記念公園で見ることができます。1970年に大阪で開かれた日本万博博覧会の目玉となっていた作品です。万博の期間では、黄金の目がサーチライトのように光っていたそうです。
この「太陽の像」の塔の部分には3つの顔があります。それぞれに意味や名前があり、過去を表す「黒い太陽」、現在を表す「太陽の顔」、金色に輝く未来を望む「黄金の顔」が存在しています。また、地下に展示されていた、人間の祈りや心の源を表す「地底の太陽」という顔も存在していたようです。
この「地底の太陽」は現在まで行方不明になっています。しかし、2018年の太陽の塔内部公開に合わせて、2017年3月より復元されました。
この「太陽の像」の塔の部分には3つの顔があります。それぞれに意味や名前があり、過去を表す「黒い太陽」、現在を表す「太陽の顔」、金色に輝く未来を望む「黄金の顔」が存在しています。また、地下に展示されていた、人間の祈りや心の源を表す「地底の太陽」という顔も存在していたようです。
この「地底の太陽」は現在まで行方不明になっています。しかし、2018年の太陽の塔内部公開に合わせて、2017年3月より復元されました。
人物
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岡本太郎はどんな人物だったのでしょうか。大胆な発言や、個性的な作品群などを見ると、奇抜な変わった人というイメージが持たれやすいでしょう。しかし、実際の岡本太郎はそういったイメージとは違った人だったのです。実際の岡本太郎は、優しくてデリケート、神経の鋭い寂しがり屋だったそうです。本当は弱虫の部類の人だったのでしょう。
しかし、弱虫だった岡本太郎は決意したのです。そして、その決意を貫いて決して変えませんでした。岡本太郎は、周囲の空気を読む事をあえて全くしないようにしていたようです。評論家を批判したりしました。当時は芸術家が評論家を批判する事など考えられない時代だったので、余計に岡本太郎の名言や格言が、人々には過激なものに写ったのでしょう。
しかし、弱虫だった岡本太郎は決意したのです。そして、その決意を貫いて決して変えませんでした。岡本太郎は、周囲の空気を読む事をあえて全くしないようにしていたようです。評論家を批判したりしました。当時は芸術家が評論家を批判する事など考えられない時代だったので、余計に岡本太郎の名言や格言が、人々には過激なものに写ったのでしょう。
岡本太郎の来歴
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岡本太郎はどのような来歴を辿ってきたのでしょうか。これから、その来歴を8つの項目に分けて紹介していきます。来歴の内容を確認していくと、岡本太郎の生きた時代の空気のようなものを感じる事ができるのかもしれません。
少年時代~美術大進学
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岡本太郎は少年時代、慶應義塾大学幼稚舎(小学校)に入学しました。実は、この小学校に入学する前に、別の小学校を1年で退学していたのです。退学の理由は岡本太郎の妥協できない性格と、自我の強さが原因となりました。そのため、慶應義塾大学幼稚舎では2回目の1年生となったのです。
そのような自我の強さを持った性格もあってか、幼少期から絵を書いて表現をしていた岡本太郎は、自然と芸術の道に進むようになります。そして、絵の才能が評価され東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学したのです。しかし、岡本太郎は「芸術は教えるものではない」と言い出し、すぐに退学という道を選びました。
そのような自我の強さを持った性格もあってか、幼少期から絵を書いて表現をしていた岡本太郎は、自然と芸術の道に進むようになります。そして、絵の才能が評価され東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学したのです。しかし、岡本太郎は「芸術は教えるものではない」と言い出し、すぐに退学という道を選びました。
パリでのピカソとの出会い
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東京美術学校(今の東京藝術大学)を退学した岡本太郎はパリに向かいました。そして、ルーブル美術館の数多くの作品に感動します。その中でも、最も岡本太郎の心を掴んだのがピカソだったのです。絵を売るためには、その時代で流行っている画風に合わせていかなければならないと考えられていたのですが、ピカソは自分が表現したい抽象画を描き続けていました。
ピカソのこの行動は、それまで誰も成し遂げたことがない偉業でした。そんなピカソに本当に感動したからこそ、岡本太郎はあえてアンチピカソを公言し始めます。ピカソを超えて、自分も超えていくと強く決心したのでしょう。
岡本太郎は、実際にピカソに対面もしています。普段はアトリエに人を入れないピカソが、アトリエに岡本太郎を招いたのです。岡本太郎はピカソの印象をこのように語っています。「彼には巨匠の威厳のようなものはなく、優しく無邪気な少年のようだった」と。
ピカソのこの行動は、それまで誰も成し遂げたことがない偉業でした。そんなピカソに本当に感動したからこそ、岡本太郎はあえてアンチピカソを公言し始めます。ピカソを超えて、自分も超えていくと強く決心したのでしょう。
岡本太郎は、実際にピカソに対面もしています。普段はアトリエに人を入れないピカソが、アトリエに岡本太郎を招いたのです。岡本太郎はピカソの印象をこのように語っています。「彼には巨匠の威厳のようなものはなく、優しく無邪気な少年のようだった」と。
兵役と戦後
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