2019年3月31日 更新

日本の即身仏とは?即身仏になるための修行法や失敗例

即身仏とは何なのか、どうやって作るのか、どんな人が即身仏になるのかなどを知りたいと思っている方のために、即身仏と関係の深い弘法大師空海を取り上げ、実際の即身仏の作り方やその失敗例、現代日本での即身仏の捉え方、海外の反応などをご紹介しています。

即身仏とは

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まず、即身仏とは何なのか解説していきます。

即身仏とは

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即身仏とは、徳の高い僧が、想像を絶するような過酷な修行の末に、体内から脂肪や水分を削ぎ落し、ミイラになりやすい体になったうえで土のなかに入り、人々の幸福や救済のために自身の身を犠牲にして神仏に祈りを捧げ、断食死した数年後に掘り出されたミイラ化した遺体のことを指します。即身仏は密教の入定という思想に由来するもので、本来は僧本人が過酷な修行によってこの世の制約から解き放たれ、悟りを得ることが目的でしたが、死を永遠の生命の獲得と考え、入定した肉体は永遠性を得るとされました。病気や飢えに苦しむ人々の救済を心から願うと同時に、僧本人も徳を積み悟りを開くことのできる究極の修行と言われています。

いつ頃の話なのか

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即身仏は平安時代から江戸時代まで行われていたとされています。日本で即身仏を一番最初に行ったのは歴史の教科書でも有名な弘法大師空海と言われており、968年に書かれた『金剛峯寺建立修行縁起』という書物には空海が即身仏になったと記されているようですが、空海はこの文献が出た130年以上前に死去しており、病死だったと記す文献も残っているため定かではありません。
日本に現存する最古の即身仏は、新潟県の西生寺に安置されている弘智法印の即身仏と言われており、鎌倉時代に作られたとされています。また、最も新しい即身仏が、新潟県の観音寺に祀られている仏海上人(1903年)とされていますので、明治時代の初頭までは即身仏が行われていたということになります。

最初に即身仏になったのは空海

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最初に即身仏になったといわれる空海について詳しく解説していきたいと思います。

空海とは

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歴史の教科書で有名な弘法大師空海は、774年現在の香川県善通寺市で生まれました。父は郡司の佐伯氏で幼名は佐伯真魚、兄が一人いました。両親は次男である真魚(空海)を中央の官僚にするべく、788年母の実家である阿刀氏を頼って真魚(空海)を上京させます。そして789年、上京した真魚(空海)は学者であった阿刀大足氏より孝経・史伝・文章・論語などを学び始めます。この時真魚15歳、大学に入るために3年間努力を重ね3年後見事大学に入学し、エリート官僚になるべくさらなる勉学に励みました。

しかし大学での勉強だけでは満足せず、19歳の頃には吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねるようになり、仏教思想を学んだとされています。父の佐伯氏は、仏教に夢中になる息子を怒りましたが、真魚(空海)は24歳の時「三教指帰」という書物を執筆し、事実上の出家を表明しています。

真魚が空海と名乗るようになったいきさつですが、室戸岬の御厨人窟で修行していた際、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込み、この時真魚は悟りを開いたとされ、洞窟の中で目にしたのが空と海だけだったためそれ以後空海と名乗るようになったと言われています。
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こうして出家し修行を重ねた空海は、804年(空海31歳の年)に藤原氏の遣唐使船に留学僧として乗船し、最澄らと共に途中暴風雨などに遭遇しながらも入唐に成功、804年の12月に長安に到着し、般若三蔵などからサンスクリット語・インドの学問などを学び、その後唐長安青龍寺にて密教の第7祖恵果和尚より約半年間に渡り密教を伝授されました。初対面で空海が過酷な修行を積んできたことを見抜いた恵果は、806年12月自身の入寂に際して、真言密教の第8祖を空海に継がせています。

留学は当初20年の予定でしたが、わずか2年足らずで密教や土木技術・薬学を学び終えた空海は、806年8月に遣唐使判官の高階氏の帰国船に便乗して帰路につきました。密教の経典や仏像、曼荼羅など貴重な品々を持ち帰った空海でしたが、20年の留学を2年ほどで帰国したため罰せられ太宰府の観世音寺にしばらく滞在していました。

その後罪が許され、809年に京都高雄の神護寺に入り、翌年嵯峨天皇のために国家を鎮める密教の大祈祷を行いました。嵯峨天皇は密教に理解を示し、この時から真言宗(密教)が重んじられるようになりました。そして812年に最澄ら弟子に灌頂(仏位につかせる儀式)を行った空海は、816年(空海43歳の年)に高野山の開山を嵯峨天皇に上奏し、許可を得て819年より伽藍の建立を開始しています。また数々の社会福祉事業も手掛け、真言密教の後継者育成に力を尽くしました。そして835年の3月21日、高野山にて62歳で入滅しました。

空海が即身仏になった理由

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密教には、過酷な修行により死後悟りを開き、死によって肉体は永遠性を得るという入定という思想があります。弘法大師空海は、835年の3月21日に亡くなりましたが、一方で「入定」し即身仏になったという言い伝えが残されています。しかし実際には空海の即身仏が存在しているのか定かではありません。

「今昔物語」によれば、空海が入定してから75年後(高野山の寺伝によれば86年後)の921年10月27日、空海は醍醐天皇より弘法大師という送り名を賜ったとされています。この知らせを報告するために高野山に向かった観賢(東寺の長者)は、無事に大師の座する岩窟の御廟に辿りつき、石室に入った所で以下のような言葉を残したとされています。

『まるで空海が生きているようなお姿で座しておられた』と、そしてヒゲと毛髪が伸びていたので剃った後に、醍醐天皇から贈られた袈裟を着替えさせたと言うものです。
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真相はいまだ不明のままですが、このような言い伝えと共に、密教には即身成仏(人間は本来物質的な肉体を抱えたまま、生きながらにして悟り、仏となることができる)という思想もあることから、即身仏と即身成仏を勘違いし、空海の即身仏があるという伝説が生まれたのではないかと考えられています。

即身仏の作り方

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即身仏になるための詳しい手順は後ほどご説明しますので、まずは即身仏になる修行方法を簡単にご紹介します。

即身仏になるための修行

Monks Meditation นั - Free photo on Pixabay (132582)

即身仏になるための修行は大きく2つの段階に分かれていますが、死を前提とした大変過酷な修行と言われており、日本全国に現存する即身仏のうち10体は山形県の湯殿山で修行を行った末、即身仏になったと言われています。湯殿山は神仏習合の聖地で気候も寒く、仙人沢で山籠もりを行い、その後千日行という厳しいを修行を行った僧たちは、さらに過酷な修行に入っていきます。それが、木食修行と土中入定と呼ばれるものです。

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