2019年9月12日 更新

史上最高の天才!フォンノイマンの逸話や偉業!宇宙人や悪魔との噂

天才アインシュタインが「天才だ」と認めたのが、IQが300以上で、現代のコンピューターの基礎を作り、原子爆弾の開発を目的として『安定性解析』をつくるなど、数々の逸話を残したのがジョン・フォン・ノイマンです。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか?

目次

1910年、父親がフェンシングの先生を招き、家族でフェンシングに取り組みましたが、ヤーノシュはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまうほど下手でした。

また、父親はヤノーシュを音楽の先生に頼み、ピアノやチェロを習わせたましたが、これもまったく上達しませんでした。実は、ヤノーシュは音楽のレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでおり、授業に全く集中していなかったことが後から判明したのです。

とことん興味のあることと、とことん興味のないものが、子供の頃からはっきりしていました。

数学の才能を見込まれ数学者の家庭教師がつく

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1914年、ブダペストにある『ルター派』とも呼ばれる。プロテスタントの一つ『ルーテル教会』の、ヨーロッパの中等教育機関『ギムナジウム』である「アウグスト信仰の福音学校」へ入学しましたが、ラースロー・ラーツ先生がヤーノシュの数学の才能を見抜きました。

父親に「ご子息に普通の数学を教えるのは罪悪と言えるほどもったいない」「私どもの責任で高度な数学を学べるように手配したい」と話し、ヤーノシュをブダペスト大学の数学者に引き合わせ、その数学者の一人『ヨージェフ・キルシャーク』教授が『セゲー・ガーボル』講師にヤノーシュの家庭教師を依頼しました。

セゲー講師が試しに出題した問題を、ヤーノシュはみごとに解いたので、セゲー講師は涙を浮かべるほど喜び、1915~1916年に家庭教師を引き受けました。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授を引き受けるのですが『ミヒャエル・フェケテ』と『リポート・フェイエール』が最もよく引き受けました。

学生時代のフォンノイマンの性格

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ラーツ先生は父親との約束を守り、ヤーノシュは数学以外の科目を勉強するように指導され、ギリシャ語・ラテン語・歴史・数学の授業も他の生徒と同じように受けていました。

同窓生の『ウィルヘルム・フェルナー』や、後にノーベル物理学賞受賞者になる『ユージン・ウィグナー』によると「ヤーノシュは、みんなから好かれようと懸命に努力し、偉そうにしたり周りを無視するようなことは無かった」と言われています。

しかし、体育はまったくダメで、周りの学生といっしょにできるようなものはなかったそうです。ギムナジウムでは首席で、当時の成績表のほとんどの科目は『優』でしたが、習字・体育・音楽の成績は『可』という落第すれすれのものでした。

ブダペスト大学の大学院で数学を学ぶ

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1921~1926年、ジョン・フォン・ノイマンは『ブダペスト大学 (Budapesti Tudományegyetem)』とも呼ばれる『エトヴェシュ・ロラーンド大学(Eötvös Loránd Tudományegyetem)= ELTE』 の大学院で数学を学びました。

ユダヤ人の家庭では「お金を稼ぐことで天国へ導かれる」と考えるため、ジョン・フォン・ノイマンの父親は「数学よりも金になる学問をつけさせたい」と望みました。

そのため、近世大学の典型となったドイツの大学『ベルリン大学』=『フリードリヒ・ウィルヘルム大学(Friedrich‐Wilhelms‐Universität)』と、スイスの『スイス連邦工科大学チューリッヒ校(Eidgenössische Technische Hochschule Zürich)=ETHZ』を掛け持ちし、化学工学を学びました。

最年少でベルリン大学の私講師に

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1926年、ジョン・フォン・ノイマンの論文が、ドイツの数学者で「 現代数学の父」と呼ばれる『ダフィット・ヒルベルト(独:daːvɪt ˈhɪlbɐt)(英:David Hilbert)』にいたく気に入られ、ドイツにある『ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン(独:Georg-August-Universität Göttingen)=GAU』でヒルベルトに師事しました。

ヒルベルトはジョン・フォン・ノイマンに感心するばかりで、瞬く間にジョン・フォン・ノイマンはヒルベルト学派の旗手になり、1927~1930年、ジョン・フォン・ノイマンは、最年少でベルリン大学の私講師(Privatdozent)を務めることになりました。

プリンストン高等研究所の教授として務める

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1930年、ドイツでナチス軍により命の危機に脅かされていたノイマン一家はアメリカに移住し、苗字も兄弟ばらばらに変え、ヤーノシュは『ジョン』というアメリカ風の名前に変えられ、苗字は『フォン・ノイマン(von Neumann)』という貴族風の苗字に変えられました。

ヤノーシュの兄弟たちは『フォンノイマン(Vonneumann)』と『ニューマン(Newman)』に変えられ、身の安全を確保できました。

ジョン・フォン・ノイマンは、ドイツ生まれの理論物理学者『アルベルト・アインシュタイン』と、ドイツの数学者『ヘルマン・ワイル』と共に、アメリカの『プリンストン高等研究所』の所員として招かれ、1933年以降は、この研究所で数学の教授を務めました。

フォンノイマンの最期

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1950年代、ジョン・フォン・ノイマンはさまざまな仕事を引き受けますが、主にアメリカ合衆国空軍のコンサルティングの仕事が増えました。そして1953年、通称「フォン・ノイマン委員会」発足の答申により、合計6種の戦略ミサイルが開発されます。

核兵器開発の際には、もれなく放射線を浴びることでジョン・フォン・ノイマンの人生は変わっていくことを余儀なくされました。自分が発明したミサイルによって、自分の命を落としてしまうことになるとは思っていなかったようです。

核兵器開発が原因で病気に

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ジョン・フォン・ノイマンは、太平洋での核爆弾実験の観測や、第二次世界大戦中1943年に、原子爆弾の開発のために創設されたアメリカの『ロスアラモス国立研究所』で核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因で、1955年に『骨腫瘍』あるいは『すい臓がん』と診断され、癌は全身に転移していました。

1954年には、イタリアのローマ出身の物理学者で、統計力学・核物理学・量子力学の分野で偉業を残した同僚の『エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)』が骨がんで死亡していたのです。

病気発覚後も活動を続ける

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ジョン・フォン・ノイマンは『骨腫瘍』あるいは『すい臓がん』と診断され、全身に癌が転移した後も、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たすなど精力的に活動を続けていました。

原子力委員会初代委員長『ルイス・ストラウス』は「アメリカの国防総省が、ジョン・フォン・ノイマンに「アメリカ合衆国政府の相談役」として重要な役割を相談することになり...移民であった彼のベッドは、国防長官・副長官・陸海軍の長官や参謀長達に囲まれるようになっていた」と回想しました。

ウォルター・リード病院に入院

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1956年1月、ジョン・フォン・ノイマンは、1909年5月1日~2011年8月27日までワシントンD.Cにあった『ウォルターリード陸軍医療センター(Walter Reed Army Center)=WRAMC』と呼ばれた『ウォルター・リード病院』に入院しました。

以前は信仰に熱心でなかったジョン・フォン・ノイマンは、死が間近になると「一度目の結婚時に改宗した、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を持つキリスト教最大の教派『カトリック教会』の司祭と話したい」と望み周囲を驚かせたそうです。

53歳で死去

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