2019年7月20日 更新

戦争とレイプは切り離せない関係?実際に起こった事件とは

戦争を経験したことがない私たちは、幸せなことに戦争中に本当に起こった出来事を知りません。戦場は男性だけの戦争の場所ではなく、女性にとっても戦場でした。何でもありなのが戦争なので、男性は殺されて当然で、女性はレイプされて当然とされたのです。

戦争は人を狂わせるものです。何人だから戦勝国になったとしても絶対に敗戦国に悪事を行わないとか、戦勝国敗戦国問わず人が人を傷つけても罪に問われなくなります。

ここでご紹介する事件は、日本での戦時中に怒った凶悪事件の中で、どれも強姦が関わっている事件です。

ここだけ見ていると、いったい誰のために何のために戦争が始まったのか?ますますわからなくなります。こんなことをしたかったために始まった戦争は一つもないはずです。

小倉黒人米兵集団脱走事件

Hand Left No War - Free vector graphic on Pixabay (492000)

1950年7月11日、在日米軍の駐屯する現北九州の小倉市の基地から多数の在日米軍の黒人兵が集団脱走し、周辺地区の住民に暴行を行なったのが小倉黒人米兵集団脱走事件です。

武装した黒人兵士約250名は、フェンスを乗り越え脱走し、数名に分かれて繁華街や周辺民家に侵入、破壊、略奪、暴行傷害、強姦などを繰り返しました。

少人数の米軍憲兵と小倉警察はなすすべもなく、アメリカ陸軍二個中隊が出動し翌日鎮圧されました。

彼らは前日10日に岐阜から城野補給基地第24連隊に移送され、朝鮮戦争の危険な前線に送られる予定で、恐怖と自暴自棄からの脱走でしたが、逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られ、ほとんどが戦死しました。

大事件でしたが、当時の日本はGHQの占領下で、情報規制のためほとんど報道されず、被害の詳細もわかっていません。70数件の被害が警察に届けられましたが、被害者や周囲がひた隠しにして表ざたにならない性暴行事件も多数ありました。

通州事件

War Destruction Conflict - Free image on Pixabay (491998)

1937年7月29日、中国の通州で、中国人部隊が日本人居留民および日本軍部隊・特務機関を襲い、日本人が大量虐殺されたのが通州事件です。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性は強姦されて殺害されました。

陰部を銃剣で刺殺され、強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺された女性たち、入り口で着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、陰部は刃物でえぐられた旅館の女将。首に縄をつけて引き回し、目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺された男性達。

手の指を揃えて切断。鼻に針金を通され、片腕を切断。首と両手を切断。陰部に箒を押し込まれる。口に土砂をつめ、腹を縦に断ち割られる。胸腹の骨が露出し内臓が散乱。腹部を銃剣で刺された妊婦。首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された死体もありました。

敦化事件

Cartridges Weapon War Hand - Free photo on Pixabay (492043)

1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えた後の8月27日、満洲国吉林省敦化で、ソ連軍によって集団強姦され続けていた日満パルプ製造敦化工場の女性社員や家族が集団自決したのが敦化事件です。日満パルプ事件とも。

8月22日、ソ連軍が、日満パルプ製造敦化工場の社宅に短機関銃を空に乱射しながら乱入し、気に入った女性たちを次々に引きずり出し女性たちの悲痛な叫びが溢れました。

暴行は8月27日の深夜になっても収まらず、28人の婦女子が集められていた部屋では自決することになり、隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残りました。ソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいました。

バンカ島事件

War Desert Guns - Free photo on Pixabay (492046)

国関係なく、戦争時は殺害以外にレイプもされます。日本人も被害者だけではなく加害者になりました。

第二次世界大戦中の1942年2月16日、かつてオランダが宗主国として支配した東南アジア島嶼部に存在した植民地国家に属する『バンカ島』で、約60名のイギリス兵とオーストラリア兵捕虜と民間人、21名の豪州陸軍看護婦が日本兵に殺害された事件がバンカ島事件です。

ここではバンカ島事件の詳細を解説していきます。

日本兵に豪州陸軍看護婦が殺された

Girl Armor Sword - Free photo on Pixabay (492048)

1942年、シンガポールの英豪軍が2月15日に日本軍に降伏する直前、民間人と一部の軍人が脱出し、約140人の豪州陸軍の看護婦も11日から12日にかけて脱出。65人の看護婦を含む婦女子を中心に約300名は、その最後の便「ヴァイナー・ブルック」号に乗船しました。

14日昼すぎ、同船はバンカ海峡で9機の日本軍機の攻撃を受け沈没し、乗客の多くはラジ海岸へ流れ着きましたが、12人の看護婦が溺死しました。

22人の看護婦と負傷兵、少数の子供と民間人が2隻の救命ボートに乗り込み、オランダ領東インドに属するバンカ島のラジー海岸に上陸し、20人のイギリス軍兵士を含まれた別で撃沈された船の乗客が100人ほど合流しました。

バンカ島で日本兵と遭遇した経緯

Soldier Uniform Army - Free photo on Pixabay (492050)

2月15日、大隊長の折田優大尉率いる岐阜歩兵第二二九聯隊第一大隊がバンカ島に上陸し、島はすでに日本軍により占領されていました。バンカ島のラジー海岸に上陸した英豪人らは、島の北西にあるムントクに本部を置いていた日本軍部隊に降伏すると決定しヴァイナー・ブルック号の船員一人を向かわせました。

その頃、看護婦の最年長であったアイリーン・メルビル・ドラモンドの指示で、民間人の女性と子供が中国人医師に率いられムントクに向かっていました。看護婦たちは負傷兵を介護するためにその場に残り、赤十字が描かれたシェルターを仮設したのです。

男性を射殺後看護婦も射殺

Sword Victory Triumph - Free photo on Pixabay (492053)

ムントクの日本軍部隊に着いたヴァイナー・ブルック号の船員は、日本軍士官1人と15人の日本軍兵士と共に戻ってきましたが、助かる様子ではありませんでした。

英豪人たちは日本軍兵士により2組の歩行が可能な男たちに分けられ、100メートルほど離れた岬の向こう側に移動するよう命じられました。そして、命をもてあそぶように初めのグループは銃剣で、2つ目のグループは銃撃で殺害されました。

22人の看護婦と1人の女性民間人は、海に入るように命じられ機関銃で銃撃されました。どの国でも戦争時の男性が考えることは同じです。この女性たちは、もちろん銃撃される前にレイプされていたことが後に判明されることになります。

奇跡的に生きていたひとりの女性

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機関銃で殺害現場には、なんと生存者がいました!ヴィヴィアン・ブルウィンケル豪陸軍看護婦隊大尉です。腹部を撃たれたブルウィンケルさんは、奇跡的に一命を免れ波打ち際に打ち寄せられ、日本軍部隊がその場を離れるまで死んだふりをしていました。

ブルウィンケルさんは、イギリス軍兵士のセシル・ジョージ・キングスレーと12日間過ごしましたが、キングスレーは傷のために数日後に死亡したために捕虜となりました。「ヴァイナー・ブルック」号に乗船していた看護婦65人のうち32人も捕虜となり、収容所に収監されました。

女性の怪我

Peace Dove Harmony - Free photo on Pixabay (492057)

看護師のヴィヴィアン・ブルウィンクル豪陸軍看護婦隊大尉は、虐殺事件で体に銃弾を受けましたが、後に、ブルウィンクルさんが着ていた看護師の制服に残された、色違いの糸から銃弾の穴について調べられました。

上半身のボタンがいったん引きちぎられ、ブルウィンクルさんの死後、制服が展示された際に、そこだけ違う色の糸で縫いつけられた様子がうかがわれ、制服の銃弾が入った時の穴と出た時の穴がぴったりそろうには、ブルウィンクルさんの制服は腰のあたりで開かれ、前の部分が下がっていたことがわかりました。

これにより、ブルウィンクルさんは、日本軍の銃撃により死に至るような致命的な傷を負うことは免れることができましたが「看護師たちは銃殺される前にレイプされた」という内容が証明されることになりました。

裁判の結果

Law Justice - Concept Auction - Free image on Pixabay (492059)

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