2019年7月15日 更新

ジルドレとジャンヌダルクの関係性とは?ジルドレの青年期と百年戦争

ジル・ドレという人物を知っているでしょうか。ジルドレは、かの有名なジャンヌダルクと共に百年戦争で戦った人物です。しかし、その後の人生は大きく変わり、後に青髭という童話でモデルになる程の犯罪者へと変貌を遂げます。そんなジルドレはどのような人だったのでしょうか。

目次

ジャンヌ・ダルクは1412年頃にフランスで農夫の元4番目の子として生まれ、1424年に神の啓示を受けたました。

神の啓示に沿い、1428年に忠告をしますが相手は取り合わず、ジャンヌ・ダルクは男性の姿に変え、王太子の王宮があるシノンにまで辿り着きました。

王太子にフランスを救うと明言し、王太子はジャンヌ・ダルクの助言を聞き入れ、包囲戦の戦場であるオルレアンの軍隊に加わることを許可します。

オルレアンにジャンヌ・ダルクが加勢したことで9日間でイギリスによる包囲は崩壊し、イギリス軍に大勝し、押されていたフランスが巻き返しました。

ジャンヌ・ダルクやジルドレの活躍もありフランス軍が勝利

Jeanne D'Arc Statue Heroine - Free photo on Pixabay (402732)

成人したジルドレは軍人になり、1424年に宮廷入りします。その後1429年にオルレアン包囲戦でジャンヌ・ダルクに協力します。

1429年の6月に起きたパテー近郊で行われた戦争「パテーの戦い」に参加し、終結に貢献し後に「救国の英雄」とも呼ばれるようになりました。

初め、ジルドレはジャンヌ・ダルクの監視を命じられていましたが、ジャンヌ・ダルクと関わっていくうちに感化され、協力していくようになったと言われています。

捕虜となったジャンヌ・ダルクはあらゆる嫌疑をかけられ処刑

Chains Feet Sand - Free photo on Pixabay (402735)

1430年5月にジャンヌはコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かいますが、そこでジャンヌ・ダルクはブルコーニュ公国軍と衝突し、部将リニー伯ジャン2世の捕虜となってしまいます。

当時、捕虜となった場合は身代金を払い、引き渡しを要求することが一般的でしたが、ジャンヌ・ダルクはそれが行われませんでした。

そして、ジャンヌ・ダルクはカトリック信仰に反するとし、異端審問として裁判を受けることになります。異議を立てた者もいましたが、それは通らず、ジャンヌ・ダルクは異端とされ、次に異端を起こした際には死刑になるという宣告を受けました。

そして、自分の身を守るためと自分の役割を担うためにしていた男装を異端とされ、ジャンヌ・ダルクは処刑されてしまいました。

百年戦争によって国家・国民というアイデンティティが形成された

Cheering Hands Cheerful - Free photo on Pixabay (402742)

この時代は国家という概念はかなり薄く、封建制という君主の下にいる諸候が土地を領土し、その土地にいる住民を統治する制度があり、貢納や軍事奉仕などが義務付けられていました。

この制度は日本でも行われており、鎌倉から江戸時代にかけて用いられていました。このように、全世界で現在の国家や、国民のアイデンティティというものが形成されておらず、住民達も苦しい生活を強いられていました。

フランスとイギリスは、百年戦争により多くの国民を無くし、多くのものを失いました。それにより、戦争を機に徐々に国家、国民としてのアイデンティティーが徐々にではありますが形成されていくようになったと言われています。

ジルドレの青年期

Man Face Facial Expression - Free image on Pixabay (402759)

ジルドレはジャンヌ・ダルクや百年戦争にも大きく関わる人物であり、フランスに貢献した大物と言えるでしょう。

そんなジルドレは出生後にどのような生活を送っていたのでしょうか。実はジルドレの家は裕福ではありましたが、決して良い環境だったというわけではありません。

幼少期から軍人になるまでに多くの困難に立ち向かい、父母、祖父の気持ちにも答えてきた好青年と言えます。しかし、ジルドレが後に大悪党へと変貌を遂げるには、この時代の環境が最も良くなかったということは間違えありません。

では、どのような環境でジルドレは成長したのでしょうか。

1405年ころシャントセで産まれる

Baby Care Child - Free photo on Pixabay (402760)

ジルドレは1405年9月頃にフランスの現在シャントセ=シュル=ロワールであるシャントセの城で長男として生まれました。

ジルドレの家庭環境は良いものとは言えませんでしたが、ジルドレは頭脳明晰で、語学に通じ、常に書物を持ち歩くという文芸愛好家と言われる程の才能を持っていました。

シャントセ城は13世紀頃建てられ、現在は廃墟となりつつも残っており、シャントセ城はブルターニュとの国境に近いアンジュー伯の軍事上の要所であったとされています。

ブルターニュ地方の貴族でありアンジュー領主に仕える家柄

Jewels Jewelry Necklace - Free photo on Pixabay (402771)

ジルドレの父はアンジュー領主に仕えており、母はブルターニュ・アンジューとの関係が深い家柄でした。このアンジューというのは、フランス北西部の一つの州であり、アンジューを統治していた貴族のことをアンジュー家と呼ばれていました。

アンジュー家は複数の家柄が交替しており、現在のナント周辺やヴァンドーム、メーヌ、マイエンヌ等近くを服従させ、フランスの大公国、要は君主として数えられていました。

そんなアンジュー家と関わりのあるジルドレですが、裕福な人生を送れたかというと、そういうわけではありません。

問題人物が多い母家系

Suspects Criminals People - Free vector graphic on Pixabay (402775)

母親であるクラン家は決して良い家とは言えず、問題を起こす人が多い家系でした。ジルの曾祖父になるピエール・ド・クランはアンジュー公1世に仕える身でしたが、主君の留守を狙い、軍資金の横領や大元帥の殺人未遂などを起こす人でした。

そしてジルドレの祖父であるジャン・ド・グランは強引で手段は選ばない人であり、ジルの人生をも操ろうとした人物になります。

かなりの策略家であり何かいいことをしていると思えば、その行動には必ず裏があるような人でした。

幼少期に両親を亡くす

Jewish Cemetery Silent - Free photo on Pixabay (402778)

ジルドレは大変裕福な貴族の元へ生まれますが、当時の貴族で行われる教育の一つである帝王学というのは大変厳しく、現在での虐待とも言えるものでした。

そんな厳しい教育が、今後のジルドレを作り出したのではないかと言われている程です。しかし、そんなジルドレでしたが、1415年になったばかりの時、ジルドレが11歳にして母親が亡くなってしまいます。

そして、その年の9月に父親が狩猟中に事故死という悲惨な出来事で起きます。11歳という幼さにして両親を亡くしたジルドレは、孤児になってしまいました。

放任主義の祖父に育てられる

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両親の死後、両親の遺言では禁忌とされていましたが、ジルドレとその弟のルネ二人が祖父に引き取られることになりました。

祖父は二人をとても溺愛し、甘やかされつつも大切に育てられ、すくすくとジルドレも育ちます。何故父親は二人を祖父の元へ行かせたくなかったのかというと、祖父は家庭教師をつけられないため、父親が望む教育方針を無視する結果になるからでした。

もちろん、その通り祖父は父親の教育方針を無視しており、教育に関しては放任主義だったと後の裁判でも述べられています。

1417年以降2度の婚約

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