2019年8月30日 更新

男色とは?男色の歴史や男色だったと言われている戦国武将も!

BL(ボーイズラブ)という言葉ご存知の方は多いでしょう。主に男性同士の同性愛をあらわす漫画や小説といった作品のジャンルのことを言います。そんなBLと同じ様な意味合いで更にBLという言葉よりも歴史の深い言葉であ“男色”についてこの記事ではご紹介します。

時は流れ武士の時代がやってきます。それによって日々戦が各地で多く行われる様になりました。しかし戦の場において女性は連れて行くことが出来なかったとされています。歴史上に女武将は意外と多く居たそうですが、それでもやはり戦場での女性の人口は圧倒的に少なかったのでしょう。

そこでもまた“男色”が流行ったとされています。生死を掛ける場であったからこその強い絆が生まれ、精神的な結び付きを重きとする武士同士の“男色”、‘衆道’が誕生しました。

出世の近道だった

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それによって戦国時代は“男色”が益々盛んになっていきました。“男色”としての小姓を抱える戦国大名は多く、それらは当時の文献などの記録から数多く見ることが出来ます。

また、この“男色”は野心家にとっては恰好の出世の近道でもあり、小姓として寵愛を受け大出世をした戦国大名では井伊直政もその1人です。2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』では菅田将暉演じる万千代(井伊直政)と阿部サダヲ演じる徳川家康との“男色”を匂わすシーンが話題となりましたね。

男色だった戦国武将

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そんな“男色”が盛んだった戦国時代。前述でも触れた様に“男色”を意識した小姓を抱える戦国大名は多く、その例は数多く見られます。勿論それらは後世に名を残した名だたる戦国武将達も例外ではありません。

その中で“男色”に興味が無かったのは豊臣秀吉くらいで、寧ろ当時はその方が珍しがられていた程でした。また、そんな戦国武将達が“男色”の相手に送ったラブレターも存在しており当時の“男色”文化の盛んさが伺うことが出来ます。

続いては、そんな“男色”だった有名な戦国武将達についてご紹介していきましょう。

武田信玄

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風林火山の軍旗と言えばピンと来る方も多いのではないでしょうか。戦国最強の武将の話題になると必ず候補に上がってくる甲斐の戦国大名武田信玄もそんな“男色”だった戦国武将の1人です。

そんな武田信玄は家臣の春日源助という青年を非常に気に入っていました。ある時信玄が浮気をしたのではないかという疑惑が浮上し、源助が城へ行くことを拒否。その為、信玄は必死の弁明をラブレターに綴り源助に送ったとされています。

その時のラブレターは現代でも残っており、その文書からは信玄の人間味や当時の心情を伺うことが出来ます。

上杉謙信

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武田信玄といえば次に浮かんでくる戦国武将は上杉謙信ですね。上杉謙信もまた“男色”であったのではないかと言われております。謙信の場合は武田信玄の様な確証を持てる手紙などは残っていないものの、彼にまつわる当時の記録や逸話から“男色”だった可能性が見えてきます。

“男色”だった可能性として『不犯の名将』と呼ばれている様に生涯妻を娶らなかった点や美少年達を呼んで朝まで宴会をしたなどといった話が挙げられます。しかし謙信の場合、仏教の毘沙門天を深く信奉していた事や女性説などの別の理由も考えることが出来ます。

今尚謎多き武将ですが、“男色”が普通であった当時を考慮すると謙信もまた“男色”の武将だったかもしれません。

伊達政宗

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中々ロマンティックな逸話が残っているのが伊達政宗です。戦国時代を元にしたゲームや歴史ドラマでもよく取り上げられ、絶大な人気を誇る戦国武将ですね。そんな伊達政宗の右腕として活躍した名軍師、片倉小十郎(景綱)の息子である2代目片倉小十郎(重長)が政宗のお相手だったそうです。

話によれば重長はとても容姿端麗な美少年だったそうで、政宗の小姓として父の景綱と共に京都へ行った際には小早川秀秋にストーキングに悩まされて東福寺に逃げ込んだという程だったそうです。

そんな重長ですが、「老翁聞書」の中に大阪夏の陣において政宗に先鋒を任せて欲しいと頼みに行った際、政宗は重長を引き寄せ「お前以外の誰を先鋒にすると言うのか」と重長の頬に口付けをしたと言った逸話が残っています。

大内義隆

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周防国(現在の山口県)を治めていた大内義隆も男色を好んだ戦国武将の1人であったと言われる人物です。兎に角美少年が好きだったそうで、関係があったとされている(疑惑が浮上している)人物には陶隆房や小早川隆景、毛利隆元などが居ます。

陶隆房とは「馬で逢瀬をしていた場所へ5時間もかけて行ったものの隆房は眠っていた為和歌に残し帰っていった」というエピソードがあります。また小早川隆景は「陰徳太平記」において男色関係にあったとされる記述があります。

ただ、この「陰徳太平記」は江戸時代になり書かれたもので文学的な側面の方が強い為、多少なりとも脚色を入れられている可能性があるので確実に関係があったとは言い切れません。
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大内義隆には逸話があり、フランシスコ・ザビエルとのエピソードが有名です。布教の為に山口の地に降り立ったザビエルですが、そこにはキリスト教では御法度である同性愛が公然とあったのです。

そして大内義隆と謁見の際「庶民までもが衆道(男色)にハマっているのは主君が主導しているからである」と非難、それに対し義隆は嫉妬であると勘違いし目の前で小姓に口付けをして見せ、ザビエルは早々に山口を退去したというエピソードがあります。

しかし、このエピソードに関しては後世になってから付け足された脚色である可能性があり、実際はザビエルが謁見に見窄らしい身なりで来た事やろくな進物を持たずにやって来た事など礼に欠いていた上に“男色”などへの非難などを口にした事から激怒し追い出したとも言われております。

徳川家康

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そんな戦国の世に終止符を打ち天下統一を果たした徳川家康は“男色”に大して興味が無かったとも言われてますが、そんな家康も“男色”のお相手が存在しておりました。

前述でもご紹介しましたが、井伊直政がそのお相手です。異例の速さでスピード出世を果たした直政ですが、彼もまた当時の記録に残っている程に美少年だったそうです。“男色”に興味を持っていなかった家康の心を動かす程には容姿端麗だったのでしょう。

その寵愛ぶりに中々元服を許してもらえず、22歳まで前髪を落とせなかったとさえ伝えられています。

藤原頼長

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時代は遡り、戦国武将からは少し逸れてしまいますが平安時代末期に太政官の最高幹部として国政を担った公卿、藤原頼長も“男色”を好む人として有名な歴史上の人物の1人です。

頼長においては日本の“男色”界におけるスーパースターとまで称されており、『台記』という頼長が遺した日記にはめくるめく“男色”の性生活の事までもが詳細に記録されているそうです。

また頼長の場合あえて政敵を狙い、褥を通じて政治上でも相手を屈服させようしたと伝えられています。

美少年を使った仕事も流行

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前述の男色だった戦国武将を通して分かってくることは、“男色”の気がある男性の多くに必ずと言って良い程美少年の存在が絡んできました。その多くは主従における関係が多かったものの江戸時代になると仕事として流行し、美少年達が男性を相手に色を売る様になります。

その多くは歌舞伎に関わる少年達でした。歌舞伎と言えば江戸時代の文化となると切っても切れない関係ですが、そこには“男色”の文化とも深い関わりがありました。そこで次は当時流行した美少年を使った“男色”の仕事についてご紹介していきましょう。

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