2019年10月13日 更新

石井久子の現在は?子どもの現在や麻原彰晃・飯田エリ子についても解説!

地下鉄サリン事件など多くの事件を起こして人々を苦しめたオウム真理教の教祖麻原彰晃には美人な愛人が多数いたことをご存知でしょうか。その愛人中の1人が石井久子でした。そんな石井久子の現在や子供、また同じく愛人の1人だった飯田エリ子のその後についてもご紹介します。

貧乏な家庭

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1955年の3月2日に麻原彰晃は熊本県八代市高植本町で「松本畳店」を営む畳職人の家庭の4男として生まれました。

男6人女3人の9人兄弟という大家族の家庭でした。麻原彰晃は先天性縁内障のためもともと左目は殆ど見えておらず、右目の視力は1.0でした。

しかし畳の需要は落ち、大家族だったこともあり、両親は働き詰めて非常に貧しい家庭で育ったといわれています。しかし、熊本県立盲学校に転校することになり、学費も食費も不要な盲学校に入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ、盲学校では他の子供たちを子分扱いしていたそうです。

ヨーガ教室

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1984年の2月に学習塾をヨガ道場「オウムの会」に変更しました。そして5月28日には株式会社オウムを設立します。

この頃既に石井久子と知りあっているのですが、当時のオウムの会について石井久子は「中性的なヨーガの先生といった所で、宗教的な感じはせずに命令する様子も無かった」と語っています。

そして、1986年4月に税制上の優遇を目につけてヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称します。これにより、オウムは宗教的な団体へと少しずつ変化していったと言われています。

娘と松本知子

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同じく1986年当時、麻原彰晃は妻の知子と3人の娘と共に千葉県の船橋市に住んでいました。家族全員で1つの寝室を共有し、食事は野菜中心という貧乏な家庭でしたが、しっかりと家庭はもっていました。

ちゃぶ台の上に野菜を並べて野菜バーベキューを楽しんだこともあったと言います。しかし、しばらくすると世田谷区の道場に住み込むようになり、ほとんど家にかえらなくなりました。子供たちは麻原彰晃がたまに帰ってくるのを楽しみにしていましたが、知子は精神不安定になっていたといいます。

この頃から「世界には食べ物を食べられない子もいる。食べ物を粗末にするのはやめようね」と家族の事も諭したりしていたようです。

オウム真理教

Book Bible Study Open - Free photo on Pixabay (706287)

1987年7月には、ヨーガ系でいきたいという大半の信者の意向をおしきり、仏教系で行くことに決め、「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に再び改称しました。

そして、この年から布教活動も開始します。自分で描いた、オカルト雑誌への高校記事を利用して、徐々に信者を獲得していきました。同年には、日本テレビ『鶴ちゃんのプッツン5』というテレビに超能力者として出演しています。

このようなメディアへの出演もあり、麻原彰晃の知名度は広がり、また、オウム真理教の信者も少しずつ増えていったといわれています。

非合法活動

Killer Horror Jimmy - Free photo on Pixabay (706288)

1993年には「全ての魂をポアするぞ」などと発言しています。ポアとは麻原彰晃が全ての殺人を正当化するために使用していた用語です。

チベット語にポアという言葉があるのですが、「殺人」や「殺す」といった意味はありません。しかし、慈悲の為に他者を殺害して極楽浄土などへ意識を還移させる思想はそんざいするといわれています。

そしてその発言と共に非合法活動を開始し、メディアへの露出も減りました。また、信者に兵器の開発や敵対者の暗殺を指示します。ほとんどの事件は弟子である村井秀夫などに指示する形で行われていましたが、薬剤師リンチ殺人事件では実際に現場に立ち合いました。

松本サリン事件

Secret Forest Darkness - Free photo on Pixabay (706293)

非合法活動をはじめてから、サリンの開発にも力を入れるようになり、サリン70トン量産計画の早期実現を命令していました。

そして1994年に麻原彰晃は子供たちに対して頻繁にスキンシップをするようになります。時には3女にキスをしたりすることもあったと言います。

そして同年6月に松本サリン事件を起こします。オウム真理教の教徒によって神経ガスのサリンが散布され、被害者は死者8人にも及びました。毎日新聞では、坂本堤一家殺人事件と、地下鉄サリン事件に並んでオウム3大事件と表現しています。

地下鉄サリン事件

Departure Platform Subway Station - Free photo on Pixabay (706296)

1995年の3月18日、40歳の麻原彰晃は、村井秀夫や井上嘉浩らと強制捜査の延期方法についてリムジン内で謀議していたそうです。そこで地下鉄にサリンを撒く提案に賛同しました。

そして3月20日に地下鉄サリン事件が起こります。世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件でした。

丸の内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、合計5編成の地下鉄車内で化学兵器として使用されるサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡し、負傷者数は6,300人にも上ったといわれています。

2018年死刑執行

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1995年5月16日に第6ディアン内の隠し部屋に隠れていた麻原彰晃ですが、そこには現金60万円とお菓子と飲料水もあったといわれています。そしてついに麻原彰晃歯逮捕されました。

東京地裁で開かれた公判の回数は257回にも上り、初公判から判決まで7年10か月を要しました。麻原彰晃は突如英語で話し始めたり、居眠りするなどして裁判長から注意や退廷命令を受けたこともあったそうです。

そして「こんなくだらん裁判はやらんでいい」などと述べ、2002年の2月25日の公判を最後に応答しなくなりました。

そして2006年に麻原彰晃への死刑執行が確定します。麻原彰晃の他にも死刑囚は13人に上りました。そして2018年7月6日の朝、麻原彰晃の死刑が執行されました。

飯田エリ子という人物

Girl Sadness Loneliness - Free photo on Pixabay (706304)

オウム真理教の教祖である麻原彰晃には正妻である松本知子の他に愛人が石井久子の他にも多くの愛人がいました。その中の一人が飯田エリ子という女性です。
もともと、石井久子をヨーガ教室に誘ったのも飯田エリ子でした。短期大学も卒業し、デパート店員を得て日産火災海上保険に入社します。

そんな真面目な人生を送ってきたような彼女がなぜ、オウム真理教に入信したのかや、オウムではどのような立場だったのかについて、ここでは詳しくご紹介していきます。飯田エリ子について知りたい方はぜひチェックしていただけたら嬉しいです。

病弱のためヨガ教室へ

Woman Desperate Sad - Free photo on Pixabay (706310)

飯田エリ子は1961年1月18日生まれで現在は58歳、神奈川県出身です。デパート店員を経験した後、日産火災海上保険に入社しました。

元々飯田エリ子は病弱で体重は38㎏程まで痩せたこともあり、1984年に健康の為にと麻原彰晃のヨーガ教室に通い始めました。

そして、会社の同僚であった石井久子も同じ麻原彰晃のヨーガ教室に通い始めることになります。そんな飯田エリ子の印象は「なんとも言えず魅力的な良い人で、こんな人がオウムの信者ならオウムも悪くない」と思ってしまう程だったといわれています。

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