2019年10月13日 更新

石井久子の現在は?子どもの現在や麻原彰晃・飯田エリ子についても解説!

地下鉄サリン事件など多くの事件を起こして人々を苦しめたオウム真理教の教祖麻原彰晃には美人な愛人が多数いたことをご存知でしょうか。その愛人中の1人が石井久子でした。そんな石井久子の現在や子供、また同じく愛人の1人だった飯田エリ子のその後についてもご紹介します。

オウム真理教の幹部「石井久子」

Summerfield Woman Girl - Free photo on Pixabay (706272)

1995年に起きた地下鉄サリン事件は多くの人の命を無差別に奪った、決して許されることのない事件です。

そんな事件の首謀者がオウム真理教の麻原彰晃でした。麻原彰晃は自身の教団の中から美人な女性を選び、多数の愛人がいたといわれています。

その中の一人が石井久子という女性でした。石井久子は麻原彰晃の愛人だけではなくオウム真理教の幹部でもありました。そんな石井久子という女性について今回は詳しくご紹介していきます。

石井久子という人物

Woman Happiness Sunrise - Free photo on Pixabay (706274)

テレビでも報じられている様に、当時のことを知る方は石井久子の顔についても知っているという方が多いのではないでしょうか。

しかし、どういった経緯でオウム真理教に入ってしまったのかや、どうして愛人になってしまったのかなど知らない方も多いのではないでしょうか。

なのでここでは、石井久子の幼少期の性格から、オウム真理教に入信したきっかけ、またオウム真理教ではどのような立場だったかなどについても詳しくご紹介していきます。

石井久子という人物について知りたい方は、ぜひ参考にしていただけたら嬉しいです。それではさっそく、ご紹介していきます。

飯田エリ子に誘われてヨーガ教室へ

Yoga Outdoor Woman - Free photo on Pixabay (706275)

石井久子さんは幼少期の頃から負けず嫌いだったといわれています。運動も勉強もできる文武両道な女性でした。

美人でもあり、文武両道でまさに多くの人が憧れるような女性でした。しかし、大学進学を希望していましたが、女性であったことを理由に両親に大学進学を認められずに短大を卒業しています。

その後、保険会社に入社していますが、負けず嫌いな性格のせいもあり、本当に進みたかった大学には進む事ができず、保険会社での仕事はあまり自分のやりたいこととは一致していなかったようです。
People Woman Yoga - Free photo on Pixabay (706276)

そして会社の同僚だった飯田エリ子に誘われて、麻原彰晃のヨーガ(古代インド発祥の伝統的な宗教的行法)教室を訪れます。ヨーガを行っている映像はテレビなどの報道でも見たことがある方が多いのではないでしょうか。

この頃から既に、現実にやりきれなさや自分のい場所がないことを感じていたのかもしれないといわれています。

同僚である飯田エリ子にヨーガ教室へ誘われてからは、度々ヨーガ教室へ通うようになりました。そうして、麻原彰晃や飯田エリ子と会う回数が増えていったといわれています。

その後オウム神仙の会が発足

Prayer Bible Christian Folded - Free photo on Pixabay (706277)

石井久子がヨーガ教室に通い始めてから暫くして、「オウム神仏の会」が発足しました。麻原彰晃のヨーガ教室がオウム真理教の形をとり始めた時期でもあります。

そして、1986年の6月についに石井久子は真面目に務めていた保険会社を退職してしまいます。そして石井久子は早い段階でオウム真理教に入信しました。

入信後は会社もやめ結婚して子供もいましたが旦那さんとは離婚し子供1人を連れて出家します。この決断で石井久子の人生はどんどんと狂っていくことになりました。

麻原彰晃の愛人

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オウム真理教に入信してから、石井久子は麻原彰晃の愛人の一人となります。そして麻原彰晃都の間に子供も3人生まれます。そして、もう一人は死産でした。

元信者の杉本繁郎は、麻原彰晃と石井久子がホテルで同じベッドにいるところを目撃しています。これについて麻原彰晃はイニシエーションだと弁明しています。

麻原彰晃と石井久子の関係は正妻である松本知子もしっていて、この関係にイラついたためか、度々麻原彰晃を殴ったり、包丁を振り回したりしていたといわれています。このためか松本知子とも度々喧嘩していたようです。

オウム真理教内で事実上のNO.2

Woman Blond Portrait - Free photo on Pixabay (706279)

教団内での管理番号は00001で教団の中ではかなり早い段階のときに正大師となりました。これはオウム真理教の階級のひとつです。

オウム真理教の階級は時期によって違ってくるのですが、1994年6月ごろの階級では石井久子の正大師という階級は上から3番目の階級になります。

このころ、階級は15以上あったといわれているので、かなり上の階級だったことが分かります。警察の調べによると1994年9月時点では正大師は4名いたようです。かなり少ないことがわかります。

美人であることを生かし自らが広告に

Coffee Magazine Newspaper - Free photo on Pixabay (706280)

石井久子は麻原彰晃の愛人としてだけではなく広告塔としても有名な存在でした。もともと顔が整っており美人だったので広告塔として活動していたのだと言われています。

また、石井久子本人も広告塔として活動することには積極的で、美人であることを存分に活かしていたといわれています。

ポスターなどは麻原彰晃本人の画像を使ったものがおおいですが、中には石井久子の写真を使ったものも存在しています。また広告塔といえば、ビートたけしさんがオウム真理教に広告塔として利用されていた過去を告白し「いい迷惑」と語っています。

麻原彰晃の正妻とは仲が悪かった

Couple Love Romance Sunset - Free photo on Pixabay (706281)

石井久子はオウム真理教の中でも美人で、麻原彰晃との間に子供も3人産んでいます。教団のなかでは、麻原彰晃との間に生まれた子供だということは秘密にされていたようです。

これはばれてしまったら説明が大変なためだと言われています。しかし、正妻である松本知子はこのことや2人の関係をしっており、そのため石井久子と松本知子の仲は悪かったと言われています。

また、事実上立場は石井久子のほうが上だったようでこのことでも喧嘩をしていたようです。

麻原彰晃という人物

Monk Hands Zen - Free photo on Pixabay (706283)

地下鉄サリン事件の他にも、数々の事件を起こしてきたオウム真理教の創始者が■麻原彰晃という人物でした。

宗教的な概念を自らに対して都合よく曲解し、殺人を肯定し続けました。また、そんな麻原彰晃に洗脳され、尊敬してきた信者は多く存在していました。

もしも麻原彰晃という人物に出会っていなかったら、オウム真理教に出会っていなかったら人生を幸せに出来た可能性がある信者もたくさんいました。今回は多くの人の人生を不幸へと導いた麻原彰晃という人物についてご紹介していきます。

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