目次
- ディアトロフ峠事件とは?
- 9人を襲った謎の死
- 死亡者一覧
- 彼らは捜索隊よりも雪山に詳しかった
- 資格取得のためのテスト中
- 9人と最後に話した者
- ユーリー・ユーディン
- ディアトロフ峠とは
- ホラチャフリ峠
- 死の山
- 事件の経緯
- 1月25日
- 1月27日
- 2月1日
- 2月20日
- 2月26日
- 先住民族マンシ族
- 温厚な民族で捜査にも協力的
- 死因や外傷
- 低体温症
- 大量出血
- 髪の白髪化、肌の褐色化
- 不可解な点
- テントが内側から破かれていた
- 下着姿や片足だけ履いた靴
- 衣服についた大量の放射線
- 皮膚の褐色化など
- 様々な説が浮上した
- 雪崩によるもの
- マンシ族の襲撃
- 人間関係のもつれ
- 未知の力によるもの
- 殺人事件
- ソ連の核実験説
- ソ連が関係していたという説
- イヴァノフ主任捜査官の意気消沈
- 闇に葬り去られることに
- 原因解明
- 皮膚の褐色化は長時間の日照
- 下着姿は矛盾脱衣によるもの
- ヘアピン渦
- ヘアピン渦とは?
- 竜巻に変化
- 風速は3倍にもなる
- 地響きを伴う
- ヘアピン渦が事件の真相の可能性
- 地響きによるパニックに耐えられず
- 不可解な点のほとんどを埋めてくれる
- 事件の真相は未だにわからない
ディアトロフ達が挑んだホラチャフリ峠とは、先住民マンシ族のあいだでは「死の山」と呼ばれています。また、ディアトロフ達と遭遇したマンシ族は、「ホラチャフリ峠には気をつけろ」「我々のあいだでは、死の山と呼ばれている」と忠告したほどです。
昔から住んでいるマンシ族が、「死の山」と呼ぶほどの何かがこのホラチャフリ峠にはあり、そして、それはディアトロフ達9人が、不可解な死を遂げることになった原因に関係しているのでしょうか?
昔から住んでいるマンシ族が、「死の山」と呼ぶほどの何かがこのホラチャフリ峠にはあり、そして、それはディアトロフ達9人が、不可解な死を遂げることになった原因に関係しているのでしょうか?
事件の経緯
via pixabay.com
ディアトロフ達に何が起きたのでしょうか?日記などに彼らの行動が記されていました。彼らはどのような行動をしていたのでしょうか。事件の経緯についてご紹介していきます。
1月25日
via pixabay.com
ディアトロフ達は、ウラル山脈で、スノートレッキングを計画していました。最終目的地はオトルテン山に設定しており、このルートは難易度が極めて高いものでしたが、メンバーは登山に熟知しており、反対する者はいませんでした。
そして、1月25日、一行は列車に乗り、スヴェルドロフスク州北部中心地のイヴデリに到着しました。ここで彼らは、トラックをチャーターして、イヴデリからさらに約80㎞ほど北方にある、有人集落のヴィジャイへと向かいました。
そして、1月25日、一行は列車に乗り、スヴェルドロフスク州北部中心地のイヴデリに到着しました。ここで彼らは、トラックをチャーターして、イヴデリからさらに約80㎞ほど北方にある、有人集落のヴィジャイへと向かいました。
1月27日
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25日にヴィジャイに到着した彼らは、27日ヴィジャイから、オトルテン山へ向け出発しましたが、翌日にメンバーの一人ユーディーンが、体調不良により離脱しました。
この時点でメンバーは9人となり、これから先に彼らと出会った人物は存在しません。これから先の内容は、事件後に発見された日記や、カメラに撮影されていた写真などにより、推測されたものになります。
そして、9人になった彼らは、再びオトルテン山を目指して出発しました。
この時点でメンバーは9人となり、これから先に彼らと出会った人物は存在しません。これから先の内容は、事件後に発見された日記や、カメラに撮影されていた写真などにより、推測されたものになります。
そして、9人になった彼らは、再びオトルテン山を目指して出発しました。
2月1日
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9人になったディアトロフ達は、再びオトルテン山を目指して出発しましたが、このとき彼らは、マンシ族に遭遇したとされ、マンシ族は「この先のホラチャフリ峠には気をつけろ」と彼らに忠告をしたとされています。そして、ディアトロフ達はオトルテン山の山頂の最後のポイントであるホラチャフリ峠に到着しました。
当初、一行がヴィジャイに戻り次第、リーダーであるディアトロフが、所属するスポーツクラブに電報を送ることになっていました。
2月12日までには、送られてくるだろうと思われていましたが、2月12日を過ぎても電報が送らてはきませんでした。
当初、一行がヴィジャイに戻り次第、リーダーであるディアトロフが、所属するスポーツクラブに電報を送ることになっていました。
2月12日までには、送られてくるだろうと思われていましたが、2月12日を過ぎても電報が送らてはきませんでした。
2月20日
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当初、ディアトロフ達がヴィジャイに戻り次第、電報を送る手はずになっていたため、2月12日までには電報が送られてくると思われていましたが、電報が送られてきませんでした。
そのため、20日におかしいと思ったユーディンと、ディアトロフの妹は、ウラル大学に捜索を要請し、ウラル工科大学の教師と学生からなる捜索隊が、捜査を開始しました。
その後、警察と軍が捜索隊を結成し、ヘリコプターでの大規模な捜索活動が開始されました。
そのため、20日におかしいと思ったユーディンと、ディアトロフの妹は、ウラル大学に捜索を要請し、ウラル工科大学の教師と学生からなる捜索隊が、捜査を開始しました。
その後、警察と軍が捜索隊を結成し、ヘリコプターでの大規模な捜索活動が開始されました。
2月26日
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26日、捜索隊がテントを発見しましたが、テントは内側から切り裂かれ、荷物は置きざりにされたままになっていました。
そして、山の麓の森林地帯で、ドロシェンコとクリヴォ二シチェンコの二人の遺体は発見され、ディアトロフ、スロボディン、コルモゴロワの三人は、テントと大きなヒマラヤ杉の間で、遺体で発見されました。
それから約2ヶ月後の5月には、大きなヒマラヤ杉から約75mほど先にある谷の中で、コレヴァトフ、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、ブリニョーリーの四人の遺体が、4mの雪に埋もれた状態で発見されました。
そして、山の麓の森林地帯で、ドロシェンコとクリヴォ二シチェンコの二人の遺体は発見され、ディアトロフ、スロボディン、コルモゴロワの三人は、テントと大きなヒマラヤ杉の間で、遺体で発見されました。
それから約2ヶ月後の5月には、大きなヒマラヤ杉から約75mほど先にある谷の中で、コレヴァトフ、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、ブリニョーリーの四人の遺体が、4mの雪に埋もれた状態で発見されました。
先住民族マンシ族
via pixabay.com
ディアトロフ達を、襲撃したという説も浮上した先住民族マンシ族とは、どのような民族なのでしょうか。マンシ族についてご紹介していきます。
温厚な民族で捜査にも協力的
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マンシ族とは、大昔から、ウラル山脈の南に住んでる先住民のことです。狩りを中心に素朴な生活をしています。また、閉鎖的で縄張り意識が強く、土地に侵入することを嫌います。
当時マンシ族は疑われ、部族の大勢が連行されて拷問にかけられたとされていますが、マンシ族はディアトロフ達に、「ホラチャフリ峠には気をつけろ、死の山と呼ばれている」と忠告をしたと言われています。
そして、マンシ族は温厚な民族で、捜査にも協力的だったとされています。
当時マンシ族は疑われ、部族の大勢が連行されて拷問にかけられたとされていますが、マンシ族はディアトロフ達に、「ホラチャフリ峠には気をつけろ、死の山と呼ばれている」と忠告をしたと言われています。
そして、マンシ族は温厚な民族で、捜査にも協力的だったとされています。
死因や外傷
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異様な状況で発見された、ディアトロフ達の死因や外傷はどのようなものだったのでしょうか。ご紹介していきます。
低体温症
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