2019年8月24日 更新

池袋通り魔殺人事件を起こした造田博の生い立ちは?事件後の現在とは

池袋通り魔殺人事件は2名の死者と6名の重傷者を出した事件で、犯人の造田博は死刑を言い渡されて現在は東京拘置所に収監されています。複雑な生い立ちの持ち主ですが犯行動機は非常に身勝手なものです。事件の概要や生い立ちについてご紹介します。

目次

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父親が手に入れた額は1000~2000万円と見られ、土地を相続して以降は体調不良を訴えて仕事へ行かなくなってしまいました。

大金を手に入れたことで働くのが嫌になったのではないかと言われています。父親の代わりに母親が保険の外交員として働き始めた頃、造田は中学を卒業して高校へ進学しました。

高校は進学校として通る県立倉敷天城高校です。中学3年生のときに必死に勉強したため合格することができたようです。

両親がギャンブルにはまる

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母親は保険の外交員として働き始めたことをきっかけに服装が派手になっていきました。また、父親とともにパチンコや競輪などのギャンブルにのめり込むようになります。

造田が高校2年生になる頃にはギャンブルに夢中になり知人やサラ金から借金をするようになっていました。借りた総額は2000~4000万円と言われています。

自宅には借金取りが押し掛けるようになり、両親は逃げるためだんだんと自宅へ帰らなくなります。

造田博は高校中退

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両親の借金の影響で造田は必死に勉強して入った高校を中退せざるを得ませんでした。担任教師からは「大検を受けて大学に行きなさい」と慰めの言葉をかけられたそうです。

お金を貯めるために造田は弁当店でアルバイトを始めました。そして両親が借金取りの目を盗んで帰宅した際に食事代をもらいながら生活をしていきます。

両親がわずかながら食事代を与えているのは多少の罪悪感があるためだと考えられます。4歳上の兄はすでに家を出て一人暮らしをしていました。

両親が借金を抱えたまま失踪

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1993年11月両親は自宅の家財道具を持ち出して失踪しました。造田は行き先を告げられておらず両親の所在は不明のまま、池袋通り魔殺人事件を起こした後も名乗り出ていません。

借金を抱えたまま失踪したため一人で借金取りの対応に追われることとなりました。食べるものもないほど困窮した造田は一人暮らしをしていた兄とともに暮らすようになります。

造田家が住んでいた自宅は競売にかけられ、1996年に一家とは関係のない家族に買い取られました。

兄の元へ身を寄せ働き始める

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1994年1月から広島県福山市で暮らしていた兄の元へ身を寄せ、市内のパチンコ店で働き始めました。しかし仕事は長続きせず1999年に事件を起こすまで14回も転職しています。

経験した仕事は工場、船舶塗装、住宅美装、新聞配達などでした。仕事が長続きしない弟を心配して兄が叱ることもありましたが仕事が続く様子はありませんでした。

お金がなくなった造田は万引きを繰り返すようになり、そのたびに兄が親代わりにお店へ謝罪に行っています。

転職を繰り返し心を閉ざしていく

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転職を繰り返して兄に怒られるたびに造田は心を閉ざしていき兄と話をすることがなくなりました。自分の殻に閉じこもり少しずつ精神に異常をきたし始めます。

1995年11月に住宅美装の会社を辞めた後も職を転々としながら1996年11月に職を探すため上京しました。その後愛知県岡崎市で仕事を見つけたものの1997年7月には再び上京して新聞販売店で働き始めます。

しかし9月には仕事を辞めて全国を転々としていきます。1998年9月には愛知県周辺で働いていたことが判明しており、事件を起こした当時は東京の新聞販売店で働いていました。

造田博のストーカー行為について

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造田博は小学生の頃に告白されたと思い込み、大学生になった相手に好意を伝える手紙を送っています。自宅に会いに行ったり女性の留学先であるアメリカへ行ったりといったストーカー行為を繰り返しました。

妄想の世界では付き合っていたため、行動に歯止めが利かなくなったのだと思われます。実際に会社の採用面接では大学生の彼女と結婚する予定だと語りました。造田の具体的な行動を見ていきましょう。

小学生の頃に告白されたと思い込む

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造田は事件後に次のような供述をしています。「私が小学生のころだったと思いますが、A子さんが私に『造田さんが好き』と言ってくれたことがありました。しかし、私はA子さんのことを何とも思っていなかったので、はっきりとした返事はしませんでした。」

続けて「このことで『造田はだめだ』等との噂がたち、A子さんの友達にからも同じようなことを言われましたので、A子さん宛てに高校生の頃だったと思いますが、2,3枚くらいの抗議の手紙を出したことがあります。」と話しました。

しかしA子さんは造田とはあまり関りがなく好きだと言ったことは絶対にないと語っています。

大学生になった相手に手紙で好意を伝える

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1994~1995年にかけて造田は、大学生になったA子さんに5回ほど手紙を出しています。直接A子さん宅に届けられた手紙もあり、手紙には「会って欲しい、一緒にいたい、返事が欲しい」などと書かれていました。

自宅へ電話をかけて「A子さんに会わせてください」と言ったこともあるようです。高校生のときにA子さんに向けて手紙を出した理由については「なぜ手紙を出したかと言いますと、自分のことを駄目だという噂が立ったことでショックを受け、不愉快になったことがあるからです」と話しています。

自宅に会いに行く

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造田はA子さんに会うため自宅を訪れたこともあります。父親が対応して「A子はあんたのことを知らない。本人も嫌がっているし、うちの子にはまだ勉強することがある」と会わせることを拒否したところ「わかりました」と答えて素直に帰宅しました。

しかし兄には「A子という人を好きになった」と話していることから好意を持ち続けていたことがわかります。1996年6月にはA子さんがアメリカへ留学していることを聞きつけてアメリカを訪れるほどでした。

A子さんが留学していたのはシアトルで造田が訪れたのはポートランドだったので2人が会うことはありませんでした。

妄想の世界では付き合っていた

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