2019年8月18日 更新

トリカブト事件の概要は?本庄保険金殺人事件やロス事件についても

トリカブト事件とはトリカブトの毒を使って神谷力が妻を殺害した事件です。無罪を主張していましたが毒殺のトリックが明らかとなり無期懲役が言い渡されました。八木茂が起こした本庄保険金殺人事件や三浦和義のロス事件についても見ていきましょう。

目次

Potion Poison Halloween - Free photo on Pixabay (566798)

妻の遺体を解剖し心臓と血液を保存していた大野医師は、トリカブト毒のアコニチンとフグ毒のテトロドトキシンには拮抗作用があることを証言しました。

2つの毒を同時に服用するとアコニチンの中毒作用が抑制されて即効性がなくなるのです。テトロドトキシンは血中濃度が半分になるまでの時間がアコニチンより短いため、拮抗作用がやがて崩れてアコニチンが作用し死に至ります。

よって、死に至る2時間前に毒を服用させていても毒殺することは可能だとして神谷のアリバイは崩れました。トリックが明らかになり毒殺の謎が解けたのです。

無期懲役が確定

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (566802)

1994年に求刑通り無期懲役が言い渡されました。神谷は控訴をしましたが二審でも一審の判決が支持されたため、神谷は最高裁に上告をします。

2000年2月21日に最高裁が上告を棄却して無期懲役が確定しました。利佐子さんとの結婚を急いだ理由は保険金が目的であったとされ、初めから借金返済に充てるための保険金殺人を計画していたと見られています。

また、神谷は1981年頃からトリカブトやフグを購入していたことから2番目の妻であるなつ江さんも毒殺された疑いがあります。

裁判後の神谷力の行動

Discovery Offender Crime - Free photo on Pixabay (566805)

裁判後も神谷力は無罪を訴え続けました。公判中と無期懲役確定後には無罪を主張する内容の本を出版しています。妻の殺害を認めることは一度もないまま2012年に病死しました。

本人の口から犯行を認める言葉は聞かれませんでしたが誰の目にも神谷が犯人であることは明らかです。裁判後の神谷の行動を見ていきましょう。

無実を訴え続けた

Grid Wire Mesh Stainless Rods - Free photo on Pixabay (566806)

神谷は公判中から無罪を訴え続けていました。週刊誌の手記の中でもマスコミに煽られたでっちあげの事件だとして無実を主張しています。

他にもトリカブトやフグの毒を抽出したことは認めていますが妻には服用させていないこと、自分にはアリバイがあり判決は矛盾に満ちていることを訴えました。

神谷は2012年に亡くなるまで殺人を認めていません。前妻の死についても病死だとして毒殺を否定したため現在も真相はわからないままです。

本を出版

Old Books Book - Free photo on Pixabay (566809)

神谷は公判中の1995年「被疑者ートリカブト殺人事件」という本を出版して本の中で無実を訴えました。さらに無期懲役が確定した後の2002年にも「仕組まれた無期懲役、トリカブト殺人事件の真実」という本を出版しています。

事件は検察にでっち上げられたもので妻たちはトリカブトやフグの毒では死んでいないとする内容です。自分にはアリバイがあるとして無実を主張しました。

どちらの本もかや工房から出版されページ数は400ページ近くもあります。

2012年病死

Bacteria Illness Virus - Free image on Pixabay (566815)

服役中だった神谷は2012年11月、73歳のときに大阪医療刑務所で病死しています。最後まで罪を認めることはなくこの世を去りました。

しかし神谷が毒殺したのは間違いなく、妻の遺体を解剖した大野医師は神谷の様子を不審に思ったとのちに話しました。大野医師が解剖直後に急性心筋梗塞という判断だと伝えると「臓器は全て返していただけましたか?若くして亡くなったので、せめて綺麗にして葬ってやりたいんです」と落ち着いた様子で答えたと言います。

神谷力の生い立ち

Wanderer Backpack Hike - Free photo on Pixabay (566816)

神谷力は宮城県仙台市に次男として生まれました。しかし東北大学の教授をしていた父親は教授を辞めて革新新党としての活動を始め兄も同じような活動を始めます。

母親は寂しさから不倫に走りましたが思いが実らずに神谷の目の前で服毒自殺をしました。複雑な家庭で育った神谷は大学受験に失敗して高卒で上京します。

職を転々としながら結婚を繰り返したこともあり、複雑な生い立ちが事件を起こすきっかけになったことは否定できません。生い立ちを詳しく見ていきましょう。

4人家族の次男として生まれる

Architecture Family House Front - Free photo on Pixabay (566818)

1939年宮城県仙台市に次男として生まれました。家族構成は父、母、5歳上の兄です。父親は東北大学の教授を務めていましたが神谷が小学3年生の時に教授を辞めています。

その後は父親が革新政党の活動家として活動を始め投獄もされています。兄も父と同じような活動をして激しい選挙活動を行っていました。

父親が教授のころは家が裕福でしたが生活は徐々に貧しくなっていき母親が仕事をして生活費を工面していました。

母親が服毒自殺を図る

Depression Mental Health Sadness - Free photo on Pixabay (566820)

夫が投獄された寂しさから母親は不倫に走ったと言われています。母親は本気でしたが不倫相手は遊びとしか考えておらず、関係が実らなかったために服毒自殺を図りました。

神谷が小学5年生のときの出来事で服毒自殺は神谷の目の前で行われました。わずか10歳で母親を亡くしたことで十分な愛情が注がれないまま大人になったと言えます。

愛情不足が事件を起こすきっかけになったのかは定かではありませんが、複雑な生い立ちが何かしらの影響を与えた可能性は十分になります。

大学受験に失敗して上京

Japan Travel Nature - Free photo on Pixabay (566822)

神谷は大学受験に失敗しています。東北大学理学部を目指していたものの合格することができず最終学歴は高卒です。その後は上京をして池袋の書店で働き始めます。

書店を辞めた後は音響機器製造会社に勤め始めるも同社が倒産したため空調機器製造販売会社に入社しました。1981年には食品会社の企業を試みましたがうまくいかず、1986年に自転車部品製造販売会社に入社しています。

職を転々としながら結婚を繰り返していきました。

結婚を繰り返しながら職を転々とする

3 / 5

関連する記事 こんな記事も人気です♪