2019年8月20日 更新

カスパーハウザーの出生の謎や暗殺事件の真相は?未だに残る多くの謎

カスパーハウザーという名前を聞いたことがなくても、肖像画を見れば「あー!」と思い当たる人も多いと思います。16歳で突然発見された少年は、ほとんどまともに言葉を話せず、一度も折り曲げたことがなかったような膝を持ち異様な様子でした。

目次

ガスパー・ハウザーは「オリ」から出されるまで2頭の木馬だけが友達でした。木馬遊びで大きな音を立てすぎて、世話をしていた男に一度だけ棒で叩かれたと言いました。しばらくして、ペンの使い方と歩き方を教えられ、ニュルンベルクに連れてこられ手紙を握らされ姿を消しました。

ガスパー・ハウザーは後に、ちゃんと言葉を使って、このような不可思議な過去を語るようになりましたが「あの男は悪くない。私に何も悪い事はしなかった」と、世話してくれた男ではなく、自身を監禁するよう命じた人物こそが悪党だと何度も言いました。

正体不明の男に刺殺される

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カスパー・ハウザーが自伝を書きあげた1829年10月17日、ダウマー宅で頭から血を流して倒れているのが発見され「覆面をつけた男にナイフか棍棒のようなもので殴られた」と言いました。市は常時2名の警護をつけましたが、スタンホープ伯の計らいで、ニュルンベルグから遠く離れたアウスバッハへと身柄を移されました。

1833年12月17日、カスパー・ハウザーはホーフガルデン公園で、また謎の人物に襲われ、胸から多量に血を流して倒れているところを発見されました。護衛が駆け付けた時、息も絶え絶えになりながら「男が…刺した…ナイフ…公園で…財布を……すぐに行け…」と言い残し3日後にこの世を去りました。

カスパー・ハウザーが刺された場所で、左右逆で鏡に映して読むメッセージが書かれた絹製の財布が見つかり「ハウザーは俺がどんな顔で何処から来た誰なのか知っているはず。奴が言う前に俺が誰だか教えてやろう。俺はバヴァリア国境から来た。名前はM・L・Oだ」と記されていました。

情報提供者に報奨金

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カスパー・ハウザーの登場で、退屈な田舎町であるニュルンベルクにセンセーショナルな話題がもたらされました。子供のような純粋さや無邪気さから天使のような少年だと言われるようになり、様々な場所に呼ばれる身分にもなり、人々は秘密めいた出生を面白がりました。

そして、バイエルン国王ルートヴィヒ1世が、殺害者の逮捕のための情報提供者に220,000フローリンの報奨金をつけましたが、犯人につながる情報は出てきませんでした。

凶器の刃物が見つかる

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カスパー・ハウザーが亡くなってから、2年あまり後に、王宮庭園で刃渡り14cm全長30cmほどの刃身が波刃になっている『ダマスクス刃』の諸刃の短剣が発見され、この短剣の刃とカスパーの刺し傷はぴったり一致しました。後の1926年に、この刃物はフランス製のシーフナイフであることが判明しました。

このいわくつきの短剣は、1926年にニュルンベルクの警察展示会にに展示され、その後もアウスバッハの博物館に所管されていましたが、1945年の終戦以後に行方不明となっています。

世話をしていたフォイエルバッハも死亡していた

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カスパー・ハウザーの謎をさらに深めたのは、彼の世話をしていたパウル・ヨハン・アンゼルム・フォイエルバッハも、1833年12月17日、カスパー・ハウザーが胸と肺を刺されて3日後に死亡した同じ年の、1833年の5月に亡くなっていたことです。彼の死も仕組まれたものの可能性があるということです。

フォイエルバッハの死因は公式の記録では病死となっているものの、実際は毒物による中毒死で命を落としており、誰かの手によって暗殺されたではないかと推測されています。

カスパーハウザーの正体は?謎の解明

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カスパーの出生や正体については、今でもさまざまな説が噂されています。カスパー・ハウザー自身も自分自身の文字で今までの経緯を説明し始め、その道の専門家たちも大変興味を示し「後もう少しで解明されるかもしれない」という時に、カスパー・ハウザーは殺害されてしまいました。

そのことにより、ますます噂が噂を呼び、解決できない事件になってしまいました。残されたのは、カスパー・ハウザーの招待に関する出生の秘密や、いきなり世間に出てきた目的でした。

バーデン大公家の世継説

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カスパー・ハウザーと同じ年に殺害されたとみられるアンゼルム・フォン・フォイエルバッハは「カスパー・ハウザーがバーデン大公家の世継で、世継問題の事情により死産の子供と取替えられ隠匿されていたもの」と確信していました。

それに対して、ローレ・シュヴァルツマイヤーは「そのような隠匿は、大公の経済事情を考えれば到底不可能なことだった」と反論しました。

ウルリケ・レオンハルトは「乳母は出産の際に常にその場にいたわけでなく、乳母自身が死産の子と取替え、あとから呼ばれた医師がいきなり死んだ子を見せられたにすぎない」と説明しました。バーデン大公家は、一族の記録文書収蔵庫の閲覧を拒んできているので、すべては未解明のままです。

スボンの血痕を分析

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遺伝子情報の分析がされても、カスパー・ハウザーの出自まだ解明されていません。1996年、ヨーロッパで一番読者数が多いと言われる『シュピーゲル誌』とアンスバッハ市が、遺伝子解析の手助けを借りて、カスパーがはいていたとされるズボンに残る血痕を分析しました。

この調査の結果、ズボンをはいていたとされる人物はバーデン大公国の王子ではないと判明しました。

このことにより、一旦「カスパー・ハウザーが、バーデン大公国の応じであるという憶測は間違いである」とされました。

髪の毛のDNA鑑定

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2002年、ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学(ミュンスター大学))の法医学研究所が、カスパーのシルクハットの汗の染みとアンスバッハのカスパー・ハウザー博物館に展示されていた髪の毛、そして同じ年に殺害されたと噂のパウル・ヨハン・アンゼルム・フォイエルバッハの遺品の中にあった髪の毛を分析しました。

この結果、科学者たちの出した結論は「カスパー・ハウザーがバーデン家の生物学的な近親者であるという結論を出すのは完全肯定できないが、バーデン大公の妃の子孫のものと極めて近い」と発表しました。

このことにより、パンツに付着していた血痕が、髪の毛のDNA鑑定の結果と一致せず、血痕はカスパー・ハウザーのものではなかったのではないかという疑いも生じてきました。

2度目のDND鑑定

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2度目のDNA鑑定の結果、カスパー・ハウザーの指紋から検出したかなりの部分が、バーデン大公カールの妃であるステファニー・ド・ボアルネの子孫『アストリッド・フォン・メディンガー』と一致することが分かりました。

ですが、それが何かを証明するわけではなく、大多数の点で一致するものの3点のズレがありました。カスパー・ハウザーのものとして遺伝子解析の対象とされているものが、本当に彼のものであるかという点も、疑いが払拭されているわけではないからでした。

今日に到るまでバーデン家は、1812年に乳児として亡くなった世継の王子の遺骨が埋葬されているプフォルツハイムの城内教会の立ち入り調査を阻んでいます。それが本当にバーデン家の世継なのか、取り替えられた身分の低い子なのかが証明されるようなDNA鑑定はまだなされていません。

第2の仮説・バーデン大公の妻の隠し子

Hall Castle Ballroom - Free photo on Pixabay (565329)

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