2019年7月12日 更新

不可解な事件15選!それぞれの事件の概要と不可解な点とは

不可解な事件は世界中で発生しています。事件が不可解なほど犯人が捕まっていないものや真相が不明なものが多いです。世界や日本ではどのような事件が起きているのかご紹介していきます。事件の概要を知り、同じような事件に巻き込まれないようにしましょう。

目次

Umbrella Night Rain - Free photo on Pixabay (474711)

行方不明になった主婦はピンクのシャツに黒っぽいスカートをはいて赤い傘をさしていました。とても目立つ格好ですが有力な目撃証言はありませんでした。

参拝してすぐ戻るつもりだったと見られ、お財布と携帯は持っていきませんでした。駆け落ちではないかという説もありましたが、主婦は孫の誕生をとても喜んでいて自らの意志で失踪するとは考えにくいです。

参拝していた夫と叔父は主婦とすれ違っていないため参道に向かう途中で事件に巻き込まれたのではないかと考えられています。

この事件の不可解な点

Camera Photography Lens - Free photo on Pixabay (474715)

未解決事件を取り扱う番組では、主婦が行方不明となった日に赤城神社で偶然撮影されていたホームビデオが公開されました。

主婦の服装と似た人物が映っていましたがのちに別人であることが判明しています。しかしそのホームビデオに小さく映っている人物の傘の色や髪型が主婦と一致しました。その人物はしゃがみ込み誰かに傘を差しだしているような仕草を見せていたと言います。

また、娘が車の中から境内とは違う方向を向いている主婦を目撃しています。少しの間目を離した隙に姿はなくなっていたのが不可解な点です。

帝銀事件

Coins Banknotes Money - Free photo on Pixabay (474720)

1948年に帝銀銀行で発生した帝銀事件についてご紹介します。

事件の概要

Books Reading Pages - Free photo on Pixabay (474723)

1948年1月26日に東京都豊島区の帝銀銀行椎名町支店、現在の三井住友銀行で毒物殺人事件が発生しました。背広姿で東京都の赤印の腕章をつけた男が銀行を訪れ「付近で井戸を使用しているところから赤痢が発生した、GHQから指示を受けて予防薬を飲んでもらうことになった」と言いました。

銀行内には行員とその家族など16人がおり、全員が男の言うとおりに2種類の薬を飲みました。1種類目を飲んだ時点で喉が焼けるように痛み、2種類目の薬を飲んだ後に次々と人が倒れて16人中12人が死亡しました。

銀行からは机の上に置いてあった現金と小切手がなくなっています。鍵が開いていた金庫からは何も取られていませんでした。盗まれた小切手は翌日に他の支店で換金されています。

犯人について

Poison Bottle Medicine - Free image on Pixabay (474724)

平沢貞通という画家が事件後に逮捕されています。男は銀行を訪れた際に名詞を差し出しており、帝銀事件で使われた名刺は架空の人物でしたがその前に発生していた同様の事件では実在する人物の名刺は使われていました。

名刺が使われた人物は誰に名刺を渡したか詳細に記録していたため、名刺をなくしたと主張した人物の中から容疑者が絞られることとなりました。

平沢貞通は銀行で過去に詐欺事件を起こしていたことや銀行から盗まれた額とほぼ同額を所持していたことが根拠となり逮捕されます。しかし平沢の指紋は銀行から検出されず生き残った行員に写真を見せた時には違う人物だと答えた人の方が多く誤認逮捕であることは明白です。

被害者について

Bank Note Euro Bills Paper - Free photo on Pixabay (474725)

帝銀事件で死亡した12人は薬と称された青酸化合物を飲んだことにより死亡しました。同様の事件は他にも起きており、1947年10月には安田銀行、現在のみずほ銀行で似た手口で薬を全員に飲ませています。

その時には何も起こらず男は「消毒班のくるのが遅いので見てくる」と言って現場を立ち去っています。また帝銀事件の一週間前にも三菱銀行、現在の三菱東京UFJ銀行で「銀行内にある現金を消毒する必要がある」と言って男が訪れています。

しかし銀行に現金がなかったため小切手にだけ瓶の中の液体をふりかけて去っていき被害者は出ていません。

この事件の不可解な点

Police Cop Uniforms - Free photo on Pixabay (474728)

誤認逮捕であることは明らかでしたが当時は自白を強要することが普通に行われていて、警察から殴る蹴るの暴行を受けた平沢貞通は自白をしてしまいます。

裁判では無罪を訴えましたが死刑判決が下されました。平沢貞通は逮捕されて間もない頃に三度の自殺を図っています。いずれも失敗していますが死をもって無実を訴えたかったことがわかります。

死刑は執行されることなく獄中で39年間過ごした平沢貞通は95歳の時に肺炎でなくなりました。死刑が執行されなかったのは誤認逮捕が明らかだったからです。

ディアトロフ峠事件

Snow Mountain Hiking - Free photo on Pixabay (474730)

1959年にソ連で発生したディアトロフ峠事件についてご紹介します。

事件の概要

Literature Book Page - Free photo on Pixabay (474732)

1959年2月2日に当時のソ連領ウラル山脈で男女9人の遺体が発見されました。摂氏30度の気温にもかかわらず遺体は皆裸足で薄着という不可解な状態でした。

また争った形跡はないものの9人中2人は頭蓋骨を骨折していて他の2人はろっ骨を損傷、1人は舌を失っていました。死因は9人中6人が凍死です。目撃者が誰もおらずはっきりとした真相は未だにわかっていません。

9人の衣服からは通常の2倍の放射線量が検出されたことや皮膚が黒っぽく変色していたことも事件の謎を深めました。

犯人について

Tank Old T-34 - Free photo on Pixabay (474735)

隊員たちはマンシ族という先住民族と遭遇していたことから当初はマンシ族に襲撃されたのではないかという説がありました。しかしテントの周りには隊員たちの足跡しかないことやマンシ族が捜査に協力的であったことから可能性は否定されています。

旧ソ連の核実験説もあります。当時はウラル山脈の裏側に弾道ミサイルの発射基地があったため核ミサイルが誤爆して放射能を浴びたのではないかと言われました。

しかし最近になって通常の2倍程度の放射線量は大気汚染で説明がつき、皮膚が変色していたのは直射日光を長い間浴びたせいだとわかりました。現在ではヘアピン渦という竜巻のような特殊な渦が発生してテントに直撃し、パニックになった隊員たちが外へ飛び出したとする説が有力です。

被害者について

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