目次
- エベンキとは
- ツングース系民族のうちのひとつ
- ユラツ人と生活を営んでいた
- エベンキの住居について
- エベンキと高麗のトーテムポール
- 高麗の、朝鮮人のトーテムポール
- 両陛下が高麗神社をご訪問
- 高句麗と百済を滅ぼしたのがエベンキ
- エベンキと韓国・朝鮮
- 韓国・朝鮮のルーツはエベンキ
- 朝鮮半島の大まかな歴史
- エベンキ族が背乗りをした
- その後高句麗民族を模倣する
- エベンキ語と韓国語が酷似している
- 他にも風習や容姿が酷似している
- 朝鮮で有名なアリランはエベンキの歌
- 衛生面への配慮もエベンキ族と似てる
- 韓国人のルーツはワイ族
- 上記のことを韓国朝鮮は隠している
- 1906年の本に書かれた韓国人の衛生面
- 獣に近い生活をしている
- 濾過をせず汚水をそのまま飲む
- 小便で顔を洗う、大便を食べる
- 汚物に抵抗感がない
- 以上のこともワイ族と一致している
- 広場の真ん中にトイレ
- エベンキ、ワイ族とは
- ワイ族の歴史
- ワイ族のすみか
- ワイ族の服装
- ワイ族の行事と取り締まり
- ワイ族の技術
- ロシア・中国とエベンキの関係性
- 中国とエベンキの関係性
- ロシアとエベンキの関係性
- エベンキ人は韓国・朝鮮人のルーツである
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陛下は、高麗神社の第60代宮司である若光の子孫に、「高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか」などを聞いたと伝えられています。
そして、皇后陛下と神社周辺の山桜やしだれ桜の木を眺めながら会話を楽しみました。
そして、皇后陛下と神社周辺の山桜やしだれ桜の木を眺めながら会話を楽しみました。
高句麗と百済を滅ぼしたのがエベンキ
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天下統一を目指して戦を繰り広げることは珍しくなく、日本や中国、ヨーロッパの歴史にもあります。また、領土を拡大するための侵略とは、遠い昔の話ばかりではありません。
近年でいうなら第二次世界大戦が集結するまでの、欧米諸国によるアジアの植民地政策も同様と言えるでしょう。かつての朝鮮半島にも同じく、覇権を巡る争いがあったのです。
朝鮮半島には、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の三国がありました。中国の満州地方から朝鮮半島北部の高句麗を扶余(ふよ)族、朝鮮半島南西部の百済を扶余族の王族(住民は倭族)、南東部の新羅をエベンキ族がそれぞれ統治していたのです。
近年でいうなら第二次世界大戦が集結するまでの、欧米諸国によるアジアの植民地政策も同様と言えるでしょう。かつての朝鮮半島にも同じく、覇権を巡る争いがあったのです。
朝鮮半島には、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の三国がありました。中国の満州地方から朝鮮半島北部の高句麗を扶余(ふよ)族、朝鮮半島南西部の百済を扶余族の王族(住民は倭族)、南東部の新羅をエベンキ族がそれぞれ統治していたのです。
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大きな勢力を誇っていた唐は、658年から659年にかけて高句麗を攻撃しました。しかし、この戦いは唐の失敗に終わっています。
高句麗と同盟関係にあった百済は朝鮮半島の南西部に位置し、唐が高句麗を攻め落とすには百済の存在が邪魔だったのです。
そこで唐は、高句麗の後ろに位置する百済を先に攻め落とすため、新羅と連合を組みました。660年3月に唐は水陸合わせた13万の軍勢を百済に差し向け、新羅もまた唐軍の指揮下に入って百済を攻めたのです。
高句麗と同盟関係にあった百済は朝鮮半島の南西部に位置し、唐が高句麗を攻め落とすには百済の存在が邪魔だったのです。
そこで唐は、高句麗の後ろに位置する百済を先に攻め落とすため、新羅と連合を組みました。660年3月に唐は水陸合わせた13万の軍勢を百済に差し向け、新羅もまた唐軍の指揮下に入って百済を攻めたのです。
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唐と新羅の両軍に攻められた百済は、660年7月に王都泗沘が占領され滅亡しました。その後、百済の王族や遺臣たちは、倭国(日本)の協力で百済復興運動に再起をかけたのです。
百済復興運動の命運を決めたのは、663年の白村江における戦いでした。唐軍が倭国の水軍を打ち破り、百済は惜しくも鎮圧され復興の夢は潰えたのです。
翌年の661年に高句麗は唐の攻撃を受け、さらに668年に唐と新羅の挟撃により滅びました。高句麗は唐に吸収され、安東都護府が設置されたのです。
百済復興運動の命運を決めたのは、663年の白村江における戦いでした。唐軍が倭国の水軍を打ち破り、百済は惜しくも鎮圧され復興の夢は潰えたのです。
翌年の661年に高句麗は唐の攻撃を受け、さらに668年に唐と新羅の挟撃により滅びました。高句麗は唐に吸収され、安東都護府が設置されたのです。
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高句麗王族の安勝は670年に新羅へ亡命し、新羅によって「高句麗王(後に報徳王)」に封じられて後高句麗滅亡政権を建てました。同じく670年、百済領を巡って唐と新羅は衝突しています。
新羅の侵略を快く思わない唐に対し謝罪使を派遣していますが、新羅の唐に対する謝罪は表向きのものでした。新羅は謝罪と侵攻とを繰り返しながら領土を蚕食し、675年に朝鮮半島の南部を統一したのです。
新羅の討伐に当たっていた唐ですが、西方勢力の拡大により朝鮮半島への介入が困難になっていました。新羅討伐を断念した唐は、678年に朝鮮半島から撤退したのです。
新羅の侵略を快く思わない唐に対し謝罪使を派遣していますが、新羅の唐に対する謝罪は表向きのものでした。新羅は謝罪と侵攻とを繰り返しながら領土を蚕食し、675年に朝鮮半島の南部を統一したのです。
新羅の討伐に当たっていた唐ですが、西方勢力の拡大により朝鮮半島への介入が困難になっていました。新羅討伐を断念した唐は、678年に朝鮮半島から撤退したのです。
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その後、684年に族人が新羅に謀反を起こしたとして、後高句麗滅亡政権は新羅に取り潰されました。こうして新羅は、旧高句麗の南端部を含む朝鮮半島の南部を支配したのです。
エベンキと韓国・朝鮮
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朝鮮半島には韓国人と北朝鮮人が住んでいます。元は朝鮮民族というまとまったひとつの民族でした。かつて朝鮮半島は、扶余族と倭人とエベンキ族が支配していたのです。エベンキ族とは、現在の韓国人のルーツに当たります。
韓国・朝鮮のルーツはエベンキ
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韓国・朝鮮人は、自分たちのルーツは百済や高句麗にあると主張しています。しかし実際は、百済や高句麗のルーツとは関係がありません。
現代の韓国・朝鮮人のルーツはエベンキ族なのです。エベンキ族と韓国・朝鮮人の文化、習慣、風習、言語には、たくさんの共通点があります。
しかし韓国・朝鮮人は、自分たちのルーツがエベンキ族にあることを認めません。日韓友好サイト・enjoy korea(エンジョイコリア)で「韓国人のルーツはエベンキ族・ワイ(穢)族である」と発信すると、数分以内に削除されるという噂があったほどです。
現代の韓国・朝鮮人のルーツはエベンキ族なのです。エベンキ族と韓国・朝鮮人の文化、習慣、風習、言語には、たくさんの共通点があります。
しかし韓国・朝鮮人は、自分たちのルーツがエベンキ族にあることを認めません。日韓友好サイト・enjoy korea(エンジョイコリア)で「韓国人のルーツはエベンキ族・ワイ(穢)族である」と発信すると、数分以内に削除されるという噂があったほどです。
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韓国人は「裸同然で生活をしていた日本人に、文化と秩序を教えて発展させたのは韓国人」だと信じています。だからこそ韓国人のルーツは、日本よりも遥かに優れた文化と秩序を持って、社会を築いていた民族であるはずなのです。
ところが実際は、文化と秩序とは無縁ともいえる民族がルーツでした。エベンキ族が韓国・朝鮮人のルーツであるということは、韓国人の自尊心が許しません。
韓国人が恥じるエベンキ族・ワイ族と韓国・朝鮮人の共通性と歴史をご紹介します。
ところが実際は、文化と秩序とは無縁ともいえる民族がルーツでした。エベンキ族が韓国・朝鮮人のルーツであるということは、韓国人の自尊心が許しません。
韓国人が恥じるエベンキ族・ワイ族と韓国・朝鮮人の共通性と歴史をご紹介します。
朝鮮半島の大まかな歴史
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無人の朝鮮半島に倭人が渡ったのは約7千年前です。朝鮮半島の古い地層から出てきた人骨のDNAを鑑定した結果、倭人と類似性があると判明しました。
また、朝鮮半島から縄文土器も出土しています。日本の縄文土器と文様の違いはありますが、これは朝鮮半島に渡った倭人が文化圏を作ったことを意味しているのです。
また、朝鮮半島から縄文土器も出土しています。日本の縄文土器と文様の違いはありますが、これは朝鮮半島に渡った倭人が文化圏を作ったことを意味しているのです。
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3世紀以前の朝鮮半島の北部は漢人が楽浪郡(らくろうぐん)を設置して支配し、南部は倭人が志良岐(しらき)と任那(みまな)を建国して支配していました。
日本の弥生時代中期(紀元前4紀頃から3世紀頃)ですが、朝鮮半島から弥生土器も出土しているのです。朝鮮半島で漢人と倭人が支配していたこの時代を「和漢共栄時代」と言います。
日本の弥生時代中期(紀元前4紀頃から3世紀頃)ですが、朝鮮半島から弥生土器も出土しているのです。朝鮮半島で漢人と倭人が支配していたこの時代を「和漢共栄時代」と言います。
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313年から314年に渡って満州地方の扶余族(高句麗人)が漢人の楽浪郡に攻め入り、楽浪郡は滅亡するに至りました。これをきっかけに、朝鮮半島は三民戦争時代に突入したのです。
356年にはワイ族が倭人国家の志良岐に背乗りして新羅を建てました。三民戦争時代の朝鮮半島は、北部の高句麗を扶余族、百済と任那を倭人、新羅をワイ族が支配したのです。
高句麗、百済と任那、新羅の三つの勢力が、朝鮮半島の覇権を握るために戦を繰り広げました。7世紀に新羅が朝鮮半島南部を統一すると、民族の統合が進んだのです。
356年にはワイ族が倭人国家の志良岐に背乗りして新羅を建てました。三民戦争時代の朝鮮半島は、北部の高句麗を扶余族、百済と任那を倭人、新羅をワイ族が支配したのです。
高句麗、百済と任那、新羅の三つの勢力が、朝鮮半島の覇権を握るために戦を繰り広げました。7世紀に新羅が朝鮮半島南部を統一すると、民族の統合が進んだのです。
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朝鮮半島北部の鴨緑江南岸と豆満江南岸一帯には、高句麗継承を掲げる渤海人が住んでいました。10世紀に高麗は、渤海の亡命者である王侯貴族を受け入れたのです。
鴨緑江沿岸と豆満江の辺りまで領土を広げ、朝鮮半島の大部分に高麗人が居住するようになりました。その後、ツングース系女真族が南下したこととモンゴル帝国が侵攻したことにより、鴨緑江と豆満江一帯は多民族地域となったのです。
鴨緑江沿岸と豆満江の辺りまで領土を広げ、朝鮮半島の大部分に高麗人が居住するようになりました。その後、ツングース系女真族が南下したこととモンゴル帝国が侵攻したことにより、鴨緑江と豆満江一帯は多民族地域となったのです。
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