目次
- トーヨーボール殺人事件の概要
- 2000年5月ボウリング場駐車場内でダンス練習をしていた
- 突然20人以上の暴走族に襲撃される
- 駐車場で少年1名が殺害される
- 殺害された少年は人違いであったことが判明
- 逮捕されたのは石元太一含む関東連合メンバー
- 少年法により2~3年で出所
- トーヨーボール殺人事件の非道な暴行内容
- 友人数名も暴行される
- 車に逃げ込むもガラスを割られ引きずり降ろされる
- 頭を踏んだりバットで複数回強打
- ライターで頭に火をつける
- 舌をハサミで半分切り落とす
- 1時間以上にわたって暴行が繰り返される
- 瀕死の状態で看護婦寮前に放置
- 脳挫傷によって死亡
- 主犯格石元 太一の生い立ち
- 1981年東京都で誕生
- 小柄な体型
- 暴力団組長の父親
- 離婚後母親に育てられる
- 中学校を卒業後16歳で暴走族に入団
- 愚連隊の総長を務める
- 関東連合に所属する
- 10代のほとんどを少年院・鑑別所で過ごす
- 元彼女として上原美優・藤井リナの名前があがっている
- 暴走族と半グレの違い
- 1962年バイクチームとしてブラックエンペラーが誕生
- 俳優の宇梶剛志が総長を務める時期があった
- 半グレとは暴力団とも違う組織
- 詐欺行為・暴力行為などを集団で行う
- ブラックエンペラー前期はバイクチーム
- 後期は一般人へも危害を加える悪質な集団に変貌
- バイクチームとしての活動はなく殺人集団とも呼ばれた
- 石元太一を中心に暴力団のような闇ビジネスを行うようになる
- 渋谷のチーマーと抗争するなど常習的に犯罪が行われる
- 六本木を中心に縄張りを広めていく
- スカウト会社や芸能プロダクションを設立
- バーやクラブなどを出店
- 2003年頃関東連合という半グレ組織はなくなったと言われている
- 関東連合がなくなった理由
- 主要人物見立真一が国外逃亡
- 石元太一は現在収監中
- 川名毅は消息不明
- トーヨーボール殺人事件が有名になった理由
- 未成年の少年らが起こした殺人事件だったため
- 犯行に使用された車両が女優の三田佳子名義
- 首謀者として逮捕された石元太一が自叙伝で発表
- 海老蔵事件
- 2010年11代目市川海老蔵は都内の飲食店で知人と酒席を共にする
- その際不適切な発言に腹を立てた石元太一の仲間が市川へ暴行を加える
- 石本太一の彼女であった藤井リナへのアプローチがきっかけと言われている
- 石本太一は事件の当事者としてメディアからの取材に積極的に応じる
- 石本太一はタレント活動に着手するようになる
- 石元太一のその後
- 2012年7月号よりエッセイの連載を開始
- 自叙伝を発売
- 非行少年更生セミナーを実施
- 格闘技ジムを開設
- 2012年8月元タレント上原美優について言及
- 2012年9月詐欺容疑で逮捕
- 六本木クラブ襲撃事件に関与しているとされ再逮捕
- 2014年獄中手記を発表
- 2016年傷害致死罪により懲役15年が確定
- 出所後は殺されるだろと自身が発言している
- 出所予定は2032年
- 悲惨な暴力事件を忘れてはいけない
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石元の父親は、暴力団組織の組長をしていた人物です。名前は石元正広といい、ヤクザの街である、東京の浅草を拠点とする暴力団組織「石元会」の組長を務めていました。
また、石元太一の自伝によると、父親の兄弟たちも全員暴力団組員であり、父親は、日本最大級の暴力団組織である山口組の元最高幹部とも懇意にしていたそうです。このようなアウトローな一族のもとに生まれました。
また、石元太一の自伝によると、父親の兄弟たちも全員暴力団組員であり、父親は、日本最大級の暴力団組織である山口組の元最高幹部とも懇意にしていたそうです。このようなアウトローな一族のもとに生まれました。
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そのような父親から、石元は「強い男になれ」と言われ続けて育ちました。その教えの通り、身長が低いながらも、体を鍛えながら日々過ごしていました。不良のルーツは、彼の父親にあるとも言えます。
ヤクザの街である浅草に生まれたことと、彼の父親やその親族たちが暴力団の人間だったことは、石元太一に凶悪さの下地を与えることとなりました。
ヤクザの街である浅草に生まれたことと、彼の父親やその親族たちが暴力団の人間だったことは、石元太一に凶悪さの下地を与えることとなりました。
離婚後母親に育てられる
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東京都台東区で暴力団組長を務める父親のもとに生まれた石元ですが、中学進学前に両親が離婚しました。彼は、組長である父親ではなく、母親についていくことにして、台東区から世田谷区へと引っ越しました。
彼の引っ越し先である世田谷区は、台東区と比べて、裕福な地域です。暴力団などの闇の社会に足を踏み入れる必要性はありませんでしたが、世田谷区には、当時は暴力団と一線を画するような暴走族グループがありました。世田谷区に引っ越したことが、そのグループと関わるきっかけとなりました。
暴力団の父親から離れ、ヤクザの街である浅草からも離れた石元でしたが、引っ越した先も闇社会が存在する街であり、結果として、彼はそこに足を踏み入れることとなったのです。
彼の引っ越し先である世田谷区は、台東区と比べて、裕福な地域です。暴力団などの闇の社会に足を踏み入れる必要性はありませんでしたが、世田谷区には、当時は暴力団と一線を画するような暴走族グループがありました。世田谷区に引っ越したことが、そのグループと関わるきっかけとなりました。
暴力団の父親から離れ、ヤクザの街である浅草からも離れた石元でしたが、引っ越した先も闇社会が存在する街であり、結果として、彼はそこに足を踏み入れることとなったのです。
中学校を卒業後16歳で暴走族に入団
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母親とともに、台東区浅草から世田谷区に引っ越した石元太一は、世田谷区立烏山中学校に入ることになりました。そして、中学校卒業後の16歳の時、暴走族に入団しました。
中学校卒業後、関東連合系の暴走族集団である「千歳台ブラックエンペラー」に入団します。それも、ただ構成員になったのではなく、このグループの総長になりました。石元太一は、16代目の総長になりましたが、彼が総長の座に就くことができたのは、先輩から引き継いだからではありません。
少年院出所後に、15代目の総長に喧嘩を仕掛け、力づくで総長の座を奪いました。
中学校卒業後、関東連合系の暴走族集団である「千歳台ブラックエンペラー」に入団します。それも、ただ構成員になったのではなく、このグループの総長になりました。石元太一は、16代目の総長になりましたが、彼が総長の座に就くことができたのは、先輩から引き継いだからではありません。
少年院出所後に、15代目の総長に喧嘩を仕掛け、力づくで総長の座を奪いました。
愚連隊の総長を務める
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愚連隊というのは、繁華街などで違法行為や犯罪行為を行うなど、合法、違法を問わない経済活動をする集団です。
彼がグループに所属する以前は、暴走族同士の構想などはありましたが、一般の人々に危害を加えるようなことはありませんでした。しかし、石元太一が総長を務めていたころは、行っていることは愚連隊と同じでした。
バイクに乗って暴走行為を行うような「暴走族」ではなく、強盗や恐喝、強姦、殺人など、一般人をも巻き込んだ犯罪行為ばかりを行う集団となっていました。これは同時に、それに参加する石元たちも、危険に身をさらすことにもなりました。
彼がグループに所属する以前は、暴走族同士の構想などはありましたが、一般の人々に危害を加えるようなことはありませんでした。しかし、石元太一が総長を務めていたころは、行っていることは愚連隊と同じでした。
バイクに乗って暴走行為を行うような「暴走族」ではなく、強盗や恐喝、強姦、殺人など、一般人をも巻き込んだ犯罪行為ばかりを行う集団となっていました。これは同時に、それに参加する石元たちも、危険に身をさらすことにもなりました。
関東連合に所属する
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石元太一が、16歳にして総長の座に就いたのが「千歳台ブラックエンペラー」ですが、この暴走族集団は、日本最大級の暴走族の連合体である、「関東連合」の傘下にある集団でした。
さらに、千歳台ブラックエンペラーは、「ブラックエンペラー」というグループに属していました。その「ブラックエンペラー」の中でも歴史のあるチームです。そこで総長を務めていたのが石元太一ですから、関東連合のなかでも有力な位置にいました。
関東連合の傘下チームで青春時代を過ごしたのです。
さらに、千歳台ブラックエンペラーは、「ブラックエンペラー」というグループに属していました。その「ブラックエンペラー」の中でも歴史のあるチームです。そこで総長を務めていたのが石元太一ですから、関東連合のなかでも有力な位置にいました。
関東連合の傘下チームで青春時代を過ごしたのです。
10代のほとんどを少年院・鑑別所で過ごす
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石元太一は、16歳で関東連合傘下であるブラックエンペラーで総長を務めていました。しかし、総長の座を奪い取る前は、少年院に入っていたのですから、関東連合に所属する前から、不良行為を行ってきていたのです。つまり、16歳より以前から、違法な行為を行っていました。
関東連合に所属した後は、それまでよりもさらに凶悪な行為を行っていますから、少年院に収容されるようなことも多々あったことは言うまでもありません。未成年は少年法で守られていますから、刑務所ではなく、少年院や特別少年院、鑑別所で10代のほとんどを過ごしました。
関東連合に所属した後は、それまでよりもさらに凶悪な行為を行っていますから、少年院に収容されるようなことも多々あったことは言うまでもありません。未成年は少年法で守られていますから、刑務所ではなく、少年院や特別少年院、鑑別所で10代のほとんどを過ごしました。
元彼女として上原美優・藤井リナの名前があがっている
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石元太一は、関東連合傘下で「千歳台ブラックエンペラー」という名の愚連隊として、合法・違法問わない経済活動を行いました。また、成年してからは、さらにハードでブラックな社会人が所属する、関東連合へとステップアップしました。
社会人の関東連合には、暴力団員や会社の社長も所属していましたし、さらに凶悪な活動をしていましたので、多額のお金を稼ぎだしていました。お金を持っている芸能人に取り入ったり、芸能事務所を運営することもあり、モデルの藤井リナや、元グラビアアイドルの上原美優が元彼女なのではないか、と言われています。
社会人の関東連合には、暴力団員や会社の社長も所属していましたし、さらに凶悪な活動をしていましたので、多額のお金を稼ぎだしていました。お金を持っている芸能人に取り入ったり、芸能事務所を運営することもあり、モデルの藤井リナや、元グラビアアイドルの上原美優が元彼女なのではないか、と言われています。
暴走族と半グレの違い
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次に、暴走族と「半グレ」と呼ばれる集団の違いについてご説明します。石元太一が所属していた、関東連合傘下にある「千歳台ブラックエンペラー」が、どのような変遷をたどってきたのかがお分かりいただけます。
1962年バイクチームとしてブラックエンペラーが誕生
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ブラックエンペラーとは、1962年から1992年にかけて存在した暴走族チームです。ブラックエンペラー結成後、間もなく日本の暴走族は1970年代に最盛期を迎えました。
1970年代の末には、ブラックエンペラーのメンバーが2000人を超えたため、総本部が国立市から新宿区へと移りました。1976年には、ブラックエンペラーを題材としたドキュメンタリードキュメンタリー映画が作成され、ブラックエンペラーの知名度は一気に上がりました。
その結果、東京都だけではなく、神奈川や千葉、茨城など関東に拡大したほか、静岡や愛知にも勢力を拡大しました。この時代には、ブラックエンペラーはバイクで暴走行為を行うバイクチームとして活動をしていました。
1970年代の末には、ブラックエンペラーのメンバーが2000人を超えたため、総本部が国立市から新宿区へと移りました。1976年には、ブラックエンペラーを題材としたドキュメンタリードキュメンタリー映画が作成され、ブラックエンペラーの知名度は一気に上がりました。
その結果、東京都だけではなく、神奈川や千葉、茨城など関東に拡大したほか、静岡や愛知にも勢力を拡大しました。この時代には、ブラックエンペラーはバイクで暴走行為を行うバイクチームとして活動をしていました。
俳優の宇梶剛志が総長を務める時期があった
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