2019年10月12日 更新

ホロドモールとは?食人せざるを得ない状況に陥ったウクライナ人

ソ連時代のウクライナで起きた大飢饉ホロドモール。人肉を食べる食人行為まで起こった世界史上最悪レベルのこの大飢饉は、いったいなぜ起こってしまったのでしょうか?また、ホロドモールとユダヤ人との間には、どのような繋がりがあるのかを紹介していきます。

1960年代以降は、コルホーズで農業に従事する人々にも、年金を含む一定の所得を保障する制度が導入されました。しかし、それまでのコルホーズに対する悪法により生じた農場の低生産性が改善されるはずもなく、農業はこれらの保障の財源を生み出すものとはなりえませんでした。

そのため、結局はソ連政府が大きな財政負担を抱える形で財源を捻出することとなり、この農業集団化は農民のみでなく、国そのものの首をも絞める結果となりました。

その後、1991年にソ連が解体されると、コルホーズという農業形態そのものに疑問が持たれるようになり、ソ連型社会主義からの脱却を目指すウクライナを含む、多くの国々ではコルホーズが解体されることとなります。

ウクライナ人の大飢饉の概要

People Homeless Male - Free photo on Pixabay (704926)

このようにして、ウクライナでは農業集団化が進められ、ソ連政府が国家の工業化を無理に推し進めようとした結果、大きな負担を背負わされたウクライナで、20世紀最大の悲劇とも言われる大飢饉ホロドモールが起こってしまいます。

多くの人が餓えに苦しみ、疫病が蔓延。町の至る所では当然のように死体が転がり、さらには人が人を食らうという、その状況はまさに地獄絵図でした。

ここでは、このホロドモールがどれほどに悲惨なできごとだったのか、その概要について書いていきます。

強制的な移住により家畜や農地を略奪

Stop Fear Violence Against - Free photo on Pixabay (704950)

独裁政治を行うソ連の国家政治保安部は、ウクライナ民族主義者、ウクライナ人の知識人、そして集団化政策に異を唱える人物など、共産党政権にとって脅威となりうる人物を容赦なく処罰します。

農業集団化に反対する農民の抵抗はソ連内の各所で見られましたが、とりわけウクライナでは激しい抵抗があり、反対勢力は「富農」を意味する「クラーク」のレッテルを貼られて次々と逮捕されました。

こうして強制的に辺境の収容所に移住させられた農民の数は500万人~1000万人とも言われています。

強制的な農業集団化

Hand Woman Female - Free photo on Pixabay (704947)

1930年代の初め頃には、農業集団化は農民らによる自発的なものとして行われていましたが、それは次第に強制的なものになっていきました。

当初は農民のにとっても利のある政策かに思われた農業集団化でしたが、その実態は収穫物を国家と、国家の出先機関であるMTC(マシン・トラクター・ステーション)に収めるという二重徴収の制度となっており、コルホーズの農民らには過大な農作物調達ノルマが課されるようになりました。

こうして農民たちは、ろくに自分たちの食糧も与えられないまま労働することを余儀なくされます。

とある村では住民まるごと追い立てられる

Hand Man Figure - Free photo on Pixabay (704967)

政府から課せられた収穫高は、豊かな土壌に恵まれたウクライナにおいても達成することが困難な量であり、スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村では、この過度な食糧調達ノルマに応じることができなかったことから住民全員が村から追い立てられるという事態が発生しています。

追い立てられた住民たちは、奴隷のような形で、男性は白海・バルト海運河建設作業へ、女性はウラルのステップ地帯に強制的に送られ、離散することとなりました。

集団化政策は農民を苦しめた

Chains Feet Sand - Free photo on Pixabay (704959)

1931年、スターリンはウクライナに対して収穫高の42%に当たる770万トンの供出を供給します。これはソ連国内の総収穫量の39.2%に及ぶ量で、コルホーズの収穫量の大半が国家に奪われることとなりました。

1933年3月の時点では、ウクライナ全体の半数近くのコルホーズで農民らに報酬が支払われない状況となっており、100万人もの農民が自家消費分の穀物すらない状態でした。

さらには「国内パスポート制」が導入され、農民たちはコルホーズに縛り付けられる奴隷のような扱いを受けるようになります。

定められた条例

Police Cop Uniforms - Free photo on Pixabay (704990)

ソ連政府は集団化政策のみならず、数々の条例を制定して農民を苦しめます。

その条例によると、農作物は全て人民に属するものとされ、食糧の取引や収穫高不達成、落穂拾いなど、農民たちのあらゆる行為が罰せられるようになりました。

自営地のトウモロコシを刈り取ったり、コルホーズのタマネギを掘り出しただけで10年の禁固刑が言い渡されたといい、その結果財産は没収され、家族は餓死しました。

また条例に違反した場合には銃殺刑に処されるケースも多く、ある法廷では、1カ月の死刑判決が1500件にものぼったといいます。

オルグ団の監視

Children Poor Mud Village - Free photo on Pixabay (704934)

農場は、都市から派遣された労働者や党メンバーによって構成されたオルグ団によって空中から監視されます。さらには学校教育等を利用して子供たちにも監視をさせるようになり、肉親を告発した子供には食べ物や衣類、メダルが与えられました。

監視者たちの横暴は留まるところを知らず、家々を回り、食卓にあるパンから、鍋に入った粥までことごとく奪っていき、農場を管理する立場にあった者たちによって、農民たちの生活はさらに荒らされることとなります。

人を食べるまで追い詰められる

Steak Meat Raw Pork - Free vector graphic on Pixabay (704969)

食糧が底を尽き、ペットや家畜までも食い尽くしてしまった農民たちは、やがて人間の死体まで食べるようになり、チフスなどの疫病が蔓延する事態となります。

ある村では、1人の女性を除いて全員が死亡し、その女性も発狂していました。飢えて苦しむ我が子を見かねた女性は、子供の首を絞めて殺害。中には、錯乱して自らの子供を食べた母親もいたといいます。

子供の誘拐を恐れた親たちは、子供たちを家の外に出さないようにするほどの極限状態となっていました。

外に出ると死体が視界に

Skull Bones Skeleton - Free photo on Pixabay (704974)

食糧を求めて都市部にやって来た農民たちは、力尽きて道に倒れ、死体はそのまま放置されました。通りに山積みにされた死体はネズミに食い荒らされ、町中には死臭が漂っているという有様は、まさに地獄絵図としか言いようがありません。

取り締まりや死体処理のために都市部から送り込まれた人たちは、その惨状に耐え切れず、逃げ帰っていく人も少なくありませんでした。

このような状況にありながら、農民たちが政府に陳情に行っても、「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだったといいます。

ソ連は飢餓を認めない

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