目次
- 集団強姦罪創設のきっかけとなった「スーパーフリー事件」とは?
- スーパーフリー事件の概要
- 2003年5月女性大生らが輪姦の被害届を提出
- インカレサークル「スーパーフリー」内で輪姦が続いていたことが発覚
- 東京大学・慶応義塾大学・明治大学など名門大学生らの関与が発覚
- 1998年から常習的に女子大生らが被害にあっていたことが発覚
- 多くの被害届が出されたが起訴されたのは3件のみ
- 14人の学生・卒業生らが準強姦罪で実刑判決を受ける
- 集団強姦罪・集団強姦致死罪の創設とつながる
- 女性の関与もあったが逮捕者は男性のみ
- スーパーフリーのサークル内容とは
- 1982年設立
- イベントサークル
- 広告宣伝や宣伝動画にも力を入れていた
- スタッフは3人だけの小規模サークル
- 歴代代表者は一流企業へ就職
- インカレサークルになっていく
- 和田真一郎はスーパーフリー最後の代表
- 逮捕者の1人:スーパーフリー代表「和田真一郎」
- スパルタな教育方針を持つ父親の元で育つ
- 小学校の成績は上位
- 中央大学経済学部に入学
- 「遊びたい」願望を叶えるため早稲田大学政経学部に入学
- 早稲田大学老舗イベントサークル「スーパーフリー」に所属する
- 六本木のクラブで「スーパーフリー」のイベントを大成功させる
- 代表は月1000万以上・1軍メンバーは70万以上のチケット収入があった
- 1998年「スーパーフリー」はインカレサークルとなり輪姦を行うようになる
- 常軌を逸したスーパーフリー内の発言
- 「女は強姦するための公共物だ」
- 「新入生の女は酒が弱くすぐにでも強姦できる」
- 「強姦に参加しないスタッフは一人前ではない」
- 「強姦は俺の生きがいだ」
- 「強姦によって連帯感を高める」
- 輪姦を行うようになったきっかけと輪姦の詳細な流れ
- 明治大学イベントと「スーパーフリー」を掛け持ちしていたスタッフの提案
- ターゲットはエリート大学に憧れる女子大生
- 「和み班」が良い潰し、ブロッキング・輪姦幇助
- 「鬼畜班」が輪姦実行
- 「和み班」が被害者を丸め込む
- 「ギャルズ」と呼ばれる輪姦幇助を行うスタッフもいた
- 本田朋子アナはスーパーフリーの元「ギャルズ」?
- 2006年フジテレビ入社
- 2013年男子プロバスケットボール選手と結婚
- フジテレビを退社後フリーアナウンサーに転向
- 学生時代「ギャルズ」に所属していたという噂
- 関東連合としての関係も噂されていた
- 原因は元カレでありこれらの話は全くのデマ
- 2003年逮捕の全容
- 2001年~2003年匿名掲示板でスーパーフリーの輪姦が取り上げられる
- 2003年輪姦の被害届が提出されて初めてこれらが取り上げられた
- 約30件の被害届が提出されるも立件されたのは3件
- 「ギャルズ」や主要メンバーの一部は逮捕されず
- 逮捕者は和田真一郎含む14名のみ
- 逮捕後、和田真一郎を庇う声が多数
- 逮捕後スーパーフリーは解散
- 逮捕後、和田真一郎は退学処分となった
- 和田真一郎には懲役14年が確定した
- 和田耀平に改名
- 出所後は大阪在住・再度改名したという噂も
- 逮捕後の様子
- 早稲田大学の対応
- 法律の対応
- 自由民主党議員、太田誠一の発言
- 自由民主党議員福田康夫の発言
- 元スーパーフリーメンバーがグーグルを相手取り損害賠償請求
- 被害者たちの様子
- 逮捕者達の現在
- 高学歴に釣られた女性が悪い?そんな屁理屈は通らない!
逮捕者の1人:スーパーフリー代表「和田真一郎」
via pixabay.com
8年間も、早稲田大学に居座った、和田真一郎は一体どのような人物なのでしょうか?
この事件の時にも問題になりましたが、戦後から現在に至るまで、早稲田始めとする有名大学には、革マル派と呼ばれる極左暴力集団のアジトが大学内にあるなどして、おじさんと呼ばれる主のような存在もいることから、大学の運営方法や大学自治権なども問題となっています。
大学は義務教育ではありません。学問以外の目的で、何年もダラダラといられるシステムは改善すべきでしょう。そうすれば、和田も事件を起こすことはなかったかもしれません。ここでは、彼がどのように大学に居座ったのかも含め、和田真一郎の生い立ちを紹介していきます。
この事件の時にも問題になりましたが、戦後から現在に至るまで、早稲田始めとする有名大学には、革マル派と呼ばれる極左暴力集団のアジトが大学内にあるなどして、おじさんと呼ばれる主のような存在もいることから、大学の運営方法や大学自治権なども問題となっています。
大学は義務教育ではありません。学問以外の目的で、何年もダラダラといられるシステムは改善すべきでしょう。そうすれば、和田も事件を起こすことはなかったかもしれません。ここでは、彼がどのように大学に居座ったのかも含め、和田真一郎の生い立ちを紹介していきます。
スパルタな教育方針を持つ父親の元で育つ
via pixabay.com
和田真一郎は、1974年(昭和49年)7月30日にこの世に誕生しました。新潟県生まれという話もありますし、神奈川県川崎市という話もあるので、出身地はハッキリとは分かりません。2019年時点で、45歳となります。
建設業を営む両親の元に、長男として誕生したせいか、とても厳しく育てられたと言われています。やはり、父親は跡取り息子と考えていたのでしょう。小学生の頃から、重機の操縦を覚えさせたり、1人で北海道までの旅を経験させたりしていました。
躾にも厳しく、人前でのあくびや、服装の乱れなど、だらしないところを見られると、殴られていたと言われています。今であれば、すぐ虐待と言う人もいますが、昭和時代の子供の多くが、軽いビンタから棒で尻を叩かれるまで、悪いことをした時には、体罰を受けることはわりと普通のことでした。その為、当時としては、和田だけが特別厳しく育てられた訳ではありません。
建設業を営む両親の元に、長男として誕生したせいか、とても厳しく育てられたと言われています。やはり、父親は跡取り息子と考えていたのでしょう。小学生の頃から、重機の操縦を覚えさせたり、1人で北海道までの旅を経験させたりしていました。
躾にも厳しく、人前でのあくびや、服装の乱れなど、だらしないところを見られると、殴られていたと言われています。今であれば、すぐ虐待と言う人もいますが、昭和時代の子供の多くが、軽いビンタから棒で尻を叩かれるまで、悪いことをした時には、体罰を受けることはわりと普通のことでした。その為、当時としては、和田だけが特別厳しく育てられた訳ではありません。
小学校の成績は上位
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小学生時代の和田は、勉強が好きで成績は常に、1・2位と上位にいたようです。のちに説明しますが、この後も大学受験や、刑務所に入った後も資格試験を多く取ったりしているので、元々頭がいいのでしょう。
当時は、父親だけではなく、学校に行っても今とは違い、先生達も厳しかったので、宿題もきちんとしていたでしょうし、勉強もよくしたのではないかと考えられます。
しかし、なまじ頭が良かった分、父親も息子に対して、過度の期待を持ってしまったのかもしれませんね。
当時は、父親だけではなく、学校に行っても今とは違い、先生達も厳しかったので、宿題もきちんとしていたでしょうし、勉強もよくしたのではないかと考えられます。
しかし、なまじ頭が良かった分、父親も息子に対して、過度の期待を持ってしまったのかもしれませんね。
中央大学経済学部に入学
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中高の頃の和田は、大人しくどちらかと言えば、今で言う「オタク」傾向のある目立たたない男だったようです。三国志が好きという情報から、歴史や読書が好きだったのでしょう。
大学進学を考えてはいましたが、始めは文学部を目指したと言われています。しかし、それでは将来就職に役に立たないと考え直し、中央大学経済学部を受験しました。将来の就職を考えていたということは、実家の建設業を継ぐ気は全くなかったのでしょう。
中学、高校時代と、思春期や反抗期もあってか、父親とはほとんど口も聞かなかったとも言われており、その頃から家を出ようと考えていたのかもしれません。1993年(平成5年)、和田は無事に中央大学経済に合格したのです。
大学進学を考えてはいましたが、始めは文学部を目指したと言われています。しかし、それでは将来就職に役に立たないと考え直し、中央大学経済学部を受験しました。将来の就職を考えていたということは、実家の建設業を継ぐ気は全くなかったのでしょう。
中学、高校時代と、思春期や反抗期もあってか、父親とはほとんど口も聞かなかったとも言われており、その頃から家を出ようと考えていたのかもしれません。1993年(平成5年)、和田は無事に中央大学経済に合格したのです。
「遊びたい」願望を叶えるため早稲田大学政経学部に入学
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中央大学時代は、あまり友達もいなかったようで、どちらかと言えば地味な印象でした。しかし、やはり日本人特有の考えからか、大学時代は遊びたいと考えていた和田は、中央大学が都心から離れた場所にあったことが不満を持つようになります。
イメージとは違った大学生活に我慢出来なかった和田は、バイトしたお金で予備校に通い、再受験をするのです。1994年(平成6年)、和田は見事に一発で早稲田大学政経学部に合格し、憧れのキャンパスライフを手に入れました。
ここで、中央大学で終わってくれれば、やはり事件を起こすことはなかったのかもしれません。しかし、この行動から見えてくるのは、大人しかったと言われる和田は、意外と野心や遊びたい欲の強い男だったということでしょう。幼い頃から、厳しく躾けられていた反動とも言えるかもしれません。
イメージとは違った大学生活に我慢出来なかった和田は、バイトしたお金で予備校に通い、再受験をするのです。1994年(平成6年)、和田は見事に一発で早稲田大学政経学部に合格し、憧れのキャンパスライフを手に入れました。
ここで、中央大学で終わってくれれば、やはり事件を起こすことはなかったのかもしれません。しかし、この行動から見えてくるのは、大人しかったと言われる和田は、意外と野心や遊びたい欲の強い男だったということでしょう。幼い頃から、厳しく躾けられていた反動とも言えるかもしれません。
早稲田大学老舗イベントサークル「スーパーフリー」に所属する
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早稲田大学に入学した和田は、20歳になっていました。入学して早々、たまたまスーパーフリーの代表をしていた先輩に声を掛けられ、和田はサークルの存在に気が付きます。
その頃は、飲み会中心のサークル活動で、月に1回ほどの集まりでした。和田が最初に参加した飲み会では、代表者を囲むように派手な女子が座っていたようで、そこに憧れを抱いてしまったのです。
ここまでの生活では、女子との係わりもなかったので、遊びたく、ミーハーな気持ちを持つ和田は、当然モテる男にも憧れたでしょう。結局、和田はこの時からサークルに所属することになります。
その頃は、飲み会中心のサークル活動で、月に1回ほどの集まりでした。和田が最初に参加した飲み会では、代表者を囲むように派手な女子が座っていたようで、そこに憧れを抱いてしまったのです。
ここまでの生活では、女子との係わりもなかったので、遊びたく、ミーハーな気持ちを持つ和田は、当然モテる男にも憧れたでしょう。結局、和田はこの時からサークルに所属することになります。
六本木のクラブで「スーパーフリー」のイベントを大成功させる
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冒頭で述べたように、スーパーフリーに所属してすぐ、代表が何故か辞めてしまった為、和田が次の代表となりました。しかし、最初の頃の和田は、伝説のディスコ(クラブ)、ヴェルファーレでのバイトにはまり、ほとんどサークル活動はしていません。
和田は2年半ほど、バイトと別のサークル「LADY JANE」のスタッフを掛け持ちで続け、色々とノウハウを学び、いよいよ大きなイベントを計画します。1998年(平成10年)4月、六本木のクラブで、500人以上を集めるイベントを開催し、大成功を収めました。
この大成功したという経験が、和田をイベントに夢中にさせていくことになります。そして、この時から大人しかった和田ではなく、自信家でブランド物好きという、派手な男に変えていくのです。
和田は2年半ほど、バイトと別のサークル「LADY JANE」のスタッフを掛け持ちで続け、色々とノウハウを学び、いよいよ大きなイベントを計画します。1998年(平成10年)4月、六本木のクラブで、500人以上を集めるイベントを開催し、大成功を収めました。
この大成功したという経験が、和田をイベントに夢中にさせていくことになります。そして、この時から大人しかった和田ではなく、自信家でブランド物好きという、派手な男に変えていくのです。
代表は月1000万以上・1軍メンバーは70万以上のチケット収入があった
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最初のイベントを大成功させてからのスーパーフリーは、どんどん大きなサークルになっていきます。上下関係は厳しく統制され、チケットの売り上げによって地位が変わります。
当然代表の和田がトップで、その後に1軍、2軍、3軍(ボーイズ)という階級が出来たのです。チケットの売り上げのキックバックもあり、和田は当時1000万以上、1軍メンバーは70万以上の収入があったと言われています。
しかし、和田はブランド好きの見栄っ張りで、イベントでの経費穴埋めなどでも金を使っていたようで、相当な借金がありました。毎月30万円ほどの借金、授業料の滞納など、実家にも督促状が毎月届いていたようです。
当然代表の和田がトップで、その後に1軍、2軍、3軍(ボーイズ)という階級が出来たのです。チケットの売り上げのキックバックもあり、和田は当時1000万以上、1軍メンバーは70万以上の収入があったと言われています。
しかし、和田はブランド好きの見栄っ張りで、イベントでの経費穴埋めなどでも金を使っていたようで、相当な借金がありました。毎月30万円ほどの借金、授業料の滞納など、実家にも督促状が毎月届いていたようです。
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2000年(平成12年)3月、和田は授業料未納で、早稲田大学を除籍されています。ここで、大学を離れてくれていれば、また何か変われたのかもしれませんが、和田はどうしても離れたくなかったのでしょう。
6年間もいたのに卒業も出来ず、除籍されてしまい、この時すでに和田は26歳です。翌年、2001年(平成13年)に、イベント会社として「有限会社スーパーフリー」を立ち上げ、代表取締役となりました。
そのまま社会人として係れば良かったものを、和田はまた早稲田大学第二文学部を受験し、再び合格して学生というポジションを取り戻したのです。こうして28歳の和田は、早稲田に拘り続けました。
6年間もいたのに卒業も出来ず、除籍されてしまい、この時すでに和田は26歳です。翌年、2001年(平成13年)に、イベント会社として「有限会社スーパーフリー」を立ち上げ、代表取締役となりました。
そのまま社会人として係れば良かったものを、和田はまた早稲田大学第二文学部を受験し、再び合格して学生というポジションを取り戻したのです。こうして28歳の和田は、早稲田に拘り続けました。
1998年「スーパーフリー」はインカレサークルとなり輪姦を行うようになる
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元々、和田以外3人ほどしかいなかった、スーパーフリーのスタッフ。1998年(平成10年)の大イベントの為に、和田は他校の生徒に運営を手伝ってもらっています。
この時から、スーパーフリーは学校の垣根を越えた、サークルとなっていきました。インカレサークルになって、大きなイベントも開催出来るようになりましたが、輪姦を始めることにもなったのです。
のちに述べますが、とあるスタッフの入れ知恵から、和田はこの輪姦計画に乗ってしまい、悪の道に落ちていくことになりました。
この時から、スーパーフリーは学校の垣根を越えた、サークルとなっていきました。インカレサークルになって、大きなイベントも開催出来るようになりましたが、輪姦を始めることにもなったのです。
のちに述べますが、とあるスタッフの入れ知恵から、和田はこの輪姦計画に乗ってしまい、悪の道に落ちていくことになりました。
常軌を逸したスーパーフリー内の発言
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