2019年10月8日 更新

冤罪事件とされている袴田事件の概要と真犯人は?

日本では時々、冤罪事件や誤認逮捕が発生しています。それほど件数は多くないものの、冤罪や誤認逮捕が被害者に与える影響は、計り知れません。この記事では、冤罪事件の中でも大きな苦痛を与えた袴田事件の真相や、真犯人について、詳細にご紹介していきましょう。

目次

冤罪事件の袴田事件の概要

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世界的に見ても優秀と評価されることが多い日本の警察であっても、時おり冤罪事件や誤認逮捕を起こすことがあります。冤罪事件や誤認逮捕は、間違いであったことが認められた後も、被害者やその家族に大きな影響を与える事柄です。仕事や生活、世間への印象など、被害者に大きな苦痛をもたらします。

さらに、冤罪・誤認である事が明らかであっても、それを司法が認めないために、長期間被害を受け続けることも少なくありません。袴田事件と呼ばれる事件で冤罪容疑をかけられた被害者男性もまた、大きすぎる苦痛、長い期間を過ごすこととなりました。

ここからは、冤罪事件の中でも長期的時間を要した袴田事件の概要について、解説していきます。

1966年静岡県で強盗殺人放火事件が発生

Fire Burn Hell Burnout - Free photo on Pixabay (693749)

1966年6月30日、静岡県清水市にあった、有限会社王こがね味噌橋本藤作商店の専務自宅が、何者かによって放火されました。炎は専務の自宅を燃やしつくし、焼け跡から4人の遺体が発見されます。

遺体となって発見されたのは、家主である専務とその妻、そして17歳の次女と14歳の長男でした。家族の中で生き残ったのは、当時19歳の長女だけです。長女は、家族から勘当され自宅を離れていましたが、火災の当日は久しぶりに帰宅していました。

容疑者として袴田巌が逮捕される

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1966年7月4日、静岡県清水警察は、怨恨を疑い王こがね味噌橋本藤作商店の従業員を疑いました。清水警察が怨恨を疑った理由は、家族の死因が火災によるものではなかったからです。死亡した家族は、火災の前に何者かによって殺害された痕跡がありました。

家族4人を殺害し、さらに放火したと考えると、強い怨恨を持っている可能性が高いと考えたのです。そして、王こがね味噌橋本藤作商店に務めていた袴田巌という当時30歳の男性が逮捕されました。袴田巌という男性が逮捕され理由は、男性の自宅から微量の血痕が付いたパジャマが見つかったからです。

1968年死刑判決が下る

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逮捕された袴田巌は、一貫して無罪を主張し続けました。しかし、違法性の高い厳しい取り調べを受け続けます。取り調べは1日10時間の時もあれば、長い日は16時間に及ぶこともありました。毎日続く、長く厳しい取り調べに、心労が溜まった袴田巌は、警察が用意した自白調書にサインしてしまいます。

否認し続けた袴田巌が、自白調書にサインし罪を認めたのは、拘留期限3日前のことでした。1966年9月9日、検察は袴田巌を強盗殺人や放火、窃盗容疑で起訴します。取り調べの際、自白調書にサインしたはずの袴田巌は、裁判で主張を覆しました。

無罪を主張したのです。しかし、1968年9月11日静岡地裁は、死刑判決を下しました。

袴田巌は無罪を主張し控訴

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袴田巌の無罪主張を退け、裁判官が死刑判決を下した理由は、証拠品として5点の衣服が押収されたからです。押収された衣服には血痕が付着しており、裁判ではそれらが確固たる証拠として採用されました。死刑判決が下された袴田巌は、拘留され、死刑執行をただ待っていたわけではありません。

逮捕当時と同じく、自身は無罪であり、逮捕や裁判で下された判決は冤罪であると主張します。袴田巌は、自身の潔白を証明するため、東京高等裁判所に控訴しました。

1980年最高裁が上告を棄却したことから死刑が確定

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袴田巌は自身の無罪を主張し、上告したものの1976年5月18日、東京高等裁判所は袴田巌の控訴を棄却します。袴田巌は控訴棄却を不服とし上告しますが、1980年11月19日最高裁判所は上告を棄却しました。この棄却によって、袴田巌の死刑判決が決定します。

東京高等裁判所、最高裁判所が袴田巌の主張を取り合わなかった理由は、自白調書にサインしていたこと、そして血痕の付いた衣服があったなどの理由からでした。

弁護側が徹底抵抗

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最高裁判所の死刑判決によって、袴田巌の判決は決定的となりました。ただ死刑執行を待つ身となったかに思われた袴田巌でしたが、救いの手が差し伸べられます。それが、日本弁護士連合会です。日本弁護士連合会と呼ばれる団体が支援し、死刑判決にたいして、徹底抵抗を見せることとなりました。

日本弁護士連合会が支援を決定する理由はいくつかありますが、主に冤罪の可能性が高い場合、人権を著しく侵害している事件、無罪が明らかとなる新しい証拠を手にする可能性があるなどの理由で、袴田事件に名乗りを上げたのです。

2011年遺留品の再鑑定が決定

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日本の弁護士は、必ず日本弁護士連合会及び最低1つの弁護士会に所属しなければならないという規定が存在します。つまり、日本弁護士連合会は全国の優秀な弁護士が所属する団体なのです。日本弁護士連合会が袴田事件に乗り出したことから、冤罪はすぐに晴れるかに思われました。

しかし、最高裁判所の判決は、それほど簡単に覆るものではありません。袴田巌の弁護側は、何度も再審請求を行い続けました。しかし、再審請求はことごとく棄却されていきます。証拠品の再鑑定が認められたのは、2011年8月でした。袴田巌が逮捕されてから、約44年後です。

2014年3月27日袴田巌の死刑及び拘留が停止となり保釈

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逮捕されてから、44年経過しての証拠品再鑑定が認められたことは、異例な出来事でした。さらに、死刑判決が下された死刑囚が、執行されないまま44年間も拘留されていたことも異例と言えます。その証拠に、袴田巌は「世界で最も長く収監された死刑囚」として、2011年3月10日ギネス記録に認定されました。

現在は認定取り消しとなっていますが、記録は1968~2010年の42年間です。袴田巌や支援者、日弁連の努力によって、2014年3月27日、死刑執行及び拘置の停止を決定しました。同日午後、袴田巌は釈放されます。

2014年8月警察が「存在しない」と主張し続けていた証拠品の保管が判明

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