2019年8月3日 更新

飯塚事件は冤罪の可能性が濃厚?真相は?事件の概要と判決も

1992年に福岡県で女児2人が殺害された飯塚事件は冤罪ではないかとの声が上がっています。冤罪だった場合は真相はわかっておらず真犯人も捕まっていないことになります。事件の概要や裁判の判決、冤罪と言われる理由についてご紹介していきます。

目次

Texture Fabric Burlap - Free photo on Pixabay (531328)

女児のスカートや靴下には繊維片が付着していました。久間の車の助手席シート、運転席フロアマット、後部フロアマットなどの繊維片を切り取り調査したところ女児に付着していたものである可能性が極めて濃厚になったのです。

久間の車はマツダ製で座席シートに使用されている織布は、昭和57年3月26日から昭和58年9月28日までに製造されたウエストコーストの座席シートにだけに使われてる特別なものでした。

マツダ製以外の車には同様の繊維片がまったく使われていないとは言い切れないものの繊維片の色や素材等が一致したことから久間の車で女児が誘拐・殺害されたとして認められました。

車の後部座席から血痕と尿痕が検出される

Crime Criminal Murder - Free image on Pixabay (531329)

久間の車の後部座席やマットからは血痕と人尿痕が検出されましたが、久間は付着の原因について納得のいく説明ができませんでした。

女児は出血、失禁した状態で発見されていることから検出されたのは女児2人のものであるとされました。久間の車から検出された血液はO型であり、被害者のうち一人がO型だったからです。

弁護人はもう一人の女児の血液型であるA型の血痕が検出されていないことはおかしいと主張しましたが、O型の女児はかなりの量の鼻血を出している一方、A型の女児は出血がわずかであったため検出されていなくても矛盾しないと結論づけられました。

被害者の膣内に残された血痕とDNAがほぼ一致

Dna String Biology - Free image on Pixabay (531330)

被害者の膣内や膣周辺部からは犯人の血痕が検出されていました。DNA鑑定を行ったところ久間のDNAのMCT118型が犯人のものと合致しました。

ただし当時のDNA鑑定技術では1人の血液であれば約266人に1人は一致することから、「決定的な積極的間接事実とはなりえない」と判示されています。

帝京大で鑑定された時にDNAが検出されなかったのは、ごく少量の綿をつまみ取ったようなものにかすかに色がついているかどうかという状態まで血痕を費消したことが理由だとされました。

アリバイがない

Staircase Body Corpse - Free photo on Pixabay (531334)

捜査段階では妻を職場へ送って帰宅した後に実母の家へ向かったと供述していましたが公判では妻を職場へ送った後まっすぐ実母の家へ向かったと供述を変更しました。

捜査員が久間の行動を再現したところ、女児が行方不明になった時間帯に現場付近を車で通過することになると判明したから供述を変更したのではないかとされました。

また事件当日の行動を思い出したきっかけを捜査段階では刑事が帰った後に何をしていたか考えて思い出した、妻とは事件の話をしていないとしていましたが公判では妻と話していて思い出したと供述を変えています。

以前に久間宅を訪れた女児が行方不明になる事件が発生

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1988年12月4日に被害者と同じ小学校に通っていた当時7歳で小学1年生の女児が行方不明になる事件が発生していました。女児は久間の息子を訪ねて遊びに行った後に一人で遊びに出かけ、工事現場のブロック塀に乗り一人でいるところを目撃されて以来行方がわからなくなっています。

久間を逮捕した後に山林を捜索したところ、女児のジャンパーとトレーナーが発見されました。傷みがすくないことから事件から数年後に捨てられた可能性があるとされています。

事件当日に女児と会っていたことは認めていますが事件への関与は否定しており、女児は現在も発見されていない未解決事件となっています。

逮捕された久間三千年とは

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逮捕された久間三千年は専業主夫で家族をとても大事にしていました。事件後には捜査への協力を申し出るなど正義感の強い人物でもありました。

しかし裁判では捜査に協力すると申し出たのは捜査の撹乱を意図したものだと結論付けられてしまいました。死刑が執行される直前まで無罪を主張していましたが警察に声が届くことはありませんでした。

冤罪事件だと証明された場合、警察は取り返しのつかないミスをしたことになります。

専業主夫をしていた

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久間は妻と小学生の息子と暮らしていて外で働かずに主夫をしていました。公務員として働いたこともありましたが当時は妻のお給料と自分の年金で生活をしていたのです。

平日は職場まで妻を送り迎えしていたことから家族思いだとわかります。妻を職場まで送った後は実母の家を訪ねることもよくあったと言います。

また、車は週に2回洗うほどきれい好きで座席シートも毎回水洗いしていました。週末には車を運転して家族でよく出かけて家族を楽しませていました。

幸せな家庭を築いていた

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久間の妻の発言からは幸せな家庭を築いていたことが伺えます。「私たち家族の幸せは、日々のなかにあり、夫の優しさ、思いやりは、生活の中に満ちあふれていました。子どもの成長に合わせて軽自動車のワンボックスから普通自動車のワンボックスに替えて、運転席に3人で座って出かけるのが楽しみでした」と話しました。

また、「私が一度は行ってみたいと思っていた富士山にも連れていってくれました。富士山に向かって走る高速道路でトンネルを抜けると目の前に現れる富士山は美しくて素晴らしいものでした。深く心に残っています」と語っています。

事件後は警察に捜査協力を申し出ている

Police Cop Uniforms - Free photo on Pixabay (531340)

久間は当時町内会長をしていて、住民全員から毛髪を提供すると警察に申し出ていました。妻も、夫である久間は正義感の強い人物だったと述べています。

しかし裁判では警察に協力するといった行動が怪しいと評価されており、裁判官は死刑判決を下す際次のように述べました。

「被告人は、警察が有している情報を探り、自己が町内会長をしていたことから明星寺団地の住民全員から毛髪を提供させようなどと言って警察の捜査に協力するように見せかけており、捜査の撹乱を意図したものと認められ、犯行後の行動も狡猾である」として久間の行動を批判しています。

死刑が執行されるまで無罪を訴えた

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久間は死刑が執行されるまで無罪を訴え、妻も無罪を信じていました。久間が残した手記には「私は無実の罪で捕われてから、拘置所に十四年収監されている。今年の一月九日で七〇歳になった。本件は冤罪事件だけに、重大な人権侵害である」と書かれています。

この手記を書いてから約80日後に死刑が執行されました。再審請求に向けて前向きに準備を進めていたにもかかわらず突然命を奪われたことになります。

足利事件でDNA再鑑定が決定し、久間もDNAの再鑑定に希望を見いだしている時でした。突然の死刑執行には批判の声を多く上がっていてなぜ再審請求の準備をしている時だったのか疑問が持たれています。

飯塚事件が冤罪だと言われる理由

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