2019年9月30日 更新

小平事件とは?昭和の連続強姦殺人事件の犯人の生い立ちとその判決

戦争の混乱のさなか、7人もの女性を強姦して殺害し、日本中を震撼させた小平義雄。その事件は小平事件と呼ばれ、日本の犯罪史に残る凶悪事件として知られています。この記事では、小平事件がどういった事件だったか、そして犯人の小平義雄はどのような人物だったかを紹介します。

公判時に小平は、「戦時下においては、自分よりむごいことをした人間を大勢いましたが、平和な時に自分ほどむごいことをした人間はいないと思います。自分のしたことは人間のすることではありません」といった趣旨の発言をしていました。

この発言から、自分の行いが人道に背く行為であることは認めたうえで、そういった行為は戦時下では誰もがしていた事であるという、犯行を正当化するかのような小平の心情が伺えます。

また、取り調べ時から公判時に至るまで、小平はたびたび供述内容を二転三転させるなど、どこかふざけているような様子が見て取れるのも印象的で、そういったことが裁判官の心象を悪くしたことは間違いないでしょう。

1948年に死刑判決

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1947年6月18日、7件の事件について有罪となった小平は、東京地裁から死刑の判決を受けます。

裁判においては、小平の責任能力の有無も争点となっていましたが、東京大学名誉教授で精神科医である内村祐之氏による精神鑑定の結果、小平は「性格異常者ではあるが、それは自己の行動を抑制できないほどのものではなく、責任能力を有する」とされました。

控訴を勧める弁護人に対して、当初小平は控訴はしない意向を示していました。しかし、面会に来た我が子の、何も知らない無邪気な様子を見て、小平は控訴を決意したと言います。

その後、第二審においても死刑を言い渡された小平は上告。最高裁において弁護側は、取り調べにおいて脅迫的な尋問があったとする点や、小平の責任能力有無についての鑑定の矛盾点などを挙げて争いましたが、1948年11月16日、最高裁は上告を棄却し、ここに小平の死刑が確定しました。

死刑当日の小平の発言

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死刑確定後、小平はしばらくの間、自暴自棄のような荒んだ態度だったと言います。しかし、面会に来た妻が、「あなたの罪の責任は私にあります」と泣き崩れたさまを見てからは、信仰を持ち落ち着いた様子で日々を送るようになります。

そして、1949年10月5日午前9時25分、小平の死刑執行が言い渡されました。執行に際し小平は、「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と言います。

そして便箋に「自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んでいきます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を全うして下さい」と遺言をしたためます。

最後に小平は饅頭を3つ食べ、タバコを1本吸って落ち着いた態度で死刑台に立ち、午前9時50分、宮城刑務所において死刑が執行されました。

小平の生い立ち

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7人もの女性を強姦して殺害するという、日本の犯罪史においても稀なほどの凶悪事件を起こした小平義雄という男は、どのような人物だったのでしょうか?小平自身が公判で証言したように、本当に戦時下という極限状態に置かれたことにより歪んでいってしまったのでしょうか?

ここからは、小平事件をより深く知るために、小平義雄という男の半生を追いながら、小平がどういう人物だったのか、どこで道を踏み外してしまったのかを考えていきたいと思います。

海軍軍人となる

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小平義雄は1903年、栃木県で宿屋を営む両親の6番目の子として生まれました。後に小平の精神鑑定を担当した内村祐之氏によると、小平の家系では、特に父系の人間に不道徳で性的に奔放、暴力的な人物が多かったと言います。

そのような血筋が小平に影響を与えたかどうかは定かではありませんが、小平自身、幼少の頃から短期で乱暴な気性でした。

小平は19歳の時に海軍に入り、オーストラリア、ヨーロッパ、旅順、上海などを回ることとなります。出兵先で娼婦を買うことを覚えた小平は、一気にその欲望を爆発させていくことになります。

山東出兵、済南事変で中国を訪れた際には、民家に押し入り、強盗と強姦を繰り返し、妊婦の腹を裂いて胎児を引きずり出すという猟奇的な行為も行なっていたと言います。

結婚後浮気相手を妊娠させる

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6年間の軍隊生活で性に目覚め、さらには後の事件にも繋がるであろうその残虐性を露わにした小平ですが、24歳で海軍を除隊してからは、入隊前に働いていた製鋼所に復職し、工場長の姪を紹介されて見合い結婚することとなります。

海軍での生活で火がついた性欲と残虐性も、結婚によってなりを潜めたかに思われたのも束の間、結婚後間も無くして小平が18歳と21歳の遠戚の女性と浮気し、私生児を産ませていたことが発覚します。

義父を殺害し6人負傷の殺傷事件

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小平の浮気を知った義父は激怒し、離婚させようと妻を実家に呼び戻し、小平の元へは帰らせませんでした。これに対して復縁を迫るべく、妻の実家に押し入った小平は、口論の末に義父を鉄棒で殴打し殺害、その他の家族6人にも怪我を負わせて逮捕されます。

こうして己の身勝手極まりない行為で懲役15年の判決を受けることとなった小平は、恩赦を受けて出所した後、服役により溜め込んだ性欲を一気に爆発させるかのように、一連の事件を起こすこととなりました。

第二小平事件

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多くの被害者を出し、戦中戦後の混乱期にある日本を震撼させた小平事件は、犯人である小平義雄の死刑により終わりを迎えました。しかし、小平事件の後を追うかのように、発生したもう一つの連続殺人事件がありました。

1946年から1947年にかけて発生したこの事件は、小平義雄が起こした小平事件を彷彿とさせるとして、第二小平事件と呼ばれています。

果たしてこの第二小平事件とはどのような事件だったのでしょうか?

小平事件に似た犯行手口

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1946年1月21日、埼玉県内の雑木林で、東京都北区在住の本橋あきさんという女性が絞殺体となって発見されました。これを受けて埼玉県警大宮署は、埼玉と東京の広域で捜査を開始します。

その結果、大宮駅付近で買い出しに来ていた女性に、「買い出しできるところを教えてあげる」「就職を斡旋してあげる」といった甘言をかけている不審な男が捜査線上に浮上、大宮署はこの不審な男を埼玉県に住む小口静という男と見て殺人容疑で逮捕しました。

調べによると、小口は大宮駅周辺で闇タバコを売っていた本橋さんを見て、「タバコ購入の斡旋をしてあげよう」と連れ出して絞殺したということです。

強盗が目的であった

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この事件は、買い出し先の紹介や就職先の斡旋をちらつかせて女性を誘い出すという、小平事件と同様の手口を使っていますが、この二つの事件には大きな違いがあります。

この事件で小口は殺害した本橋さんから現金20円とコート、さらには下着に至るまで奪って逃走していますが、小平事件と違い、あくまでその目的は強姦ではなく強盗でした。

小口は、そのしつこくて乱暴な性格から妻に3度逃げられており、その腹いせに「女に復讐してやる」と考えた末の犯行だったということです。

3つの殺人事件を起こした

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