2019年9月30日 更新

小平事件とは?昭和の連続強姦殺人事件の犯人の生い立ちとその判決

戦争の混乱のさなか、7人もの女性を強姦して殺害し、日本中を震撼させた小平義雄。その事件は小平事件と呼ばれ、日本の犯罪史に残る凶悪事件として知られています。この記事では、小平事件がどういった事件だったか、そして犯人の小平義雄はどのような人物だったかを紹介します。

1945年9月28日、東京駅中央線ホームで友人と待ち合わせをしていた松下ヨシ江さんに近づき、雑談の末、「米を売ってくれる知り合いの農家があるから案内しよう」と誘い出し、雑木林に連れ込みました。

小平は「早く服を脱げ」と脅し、観念した松下さんは服を脱ぎかけますが、その時付近に栗拾いに来ていた子供らしき声が聞こえます。松下さんに声を立てられては厄介だと慌てた小平は、彼女の首を絞めて失神させようとしますが、勢い余ってそのまま殺害してしまったため、遺体を強姦し、金品を奪って逃走しました。

「遺体を強姦した」という点に関しては、逮捕後の取り調べから公判における証言まで、小平は供述を二転三転させています。

浅草雷門駅で同様の手口で犯行を行う

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1945年12月30日、栃木県へ食糧の買い出しに行くため、浅草雷門駅に来ていた小平は、母の疎開先である日光へ向かうためそこに居合わせた馬場寛子さんに話しかけ、「米を安く買える農家があるから案内しよう」と言い誘い出します。

栃木県の東武金崎駅で下車した後、「近道を行く」と言って付近の山林中を数時間に渡って連れまわした末に強姦し、犯行を隠蔽するため、馬場さんの持っていたマフラーで彼女の首を絞めて殺害しました。

その後、現金を奪った挙句、遺体を付近の堀に投げ込み逃走しています。

17歳少女を殺害

Desperate Sad Depressed - Free photo on Pixabay (674047)

1946年4月頃から港区の米軍兵舎で勤めるようになっていた小平は、帰宅途中に品川駅で知り合った緑川柳子さんに就職の斡旋を頼まれていました。その後、小平は採用試験のために就職先まで同伴すると言って、同年8月6日、品川駅付近の地下道で緑川さんと落ち合います。

そこで小平は「丸ノ内のアメリカン・クラブで紹介状をもらわねば駄目だ」などと言って、港区芝公園西向観音山裏山に緑川さんを連れ出し、強姦します。その際抵抗されたため、小平は緑川さんの顔を殴って行為に及び、その後、緑川さんが着ていた腹巻で首を絞めて殺害、遺体を遺棄し逃走します。

この犯行の後、小平は逮捕されることとなるのですが、小平による犯行の最後の犠牲者となった緑川さんは、この時若干17歳の少女でした。

農家の案内が魅力的だった理由

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小平が起こしたこれら一連の事件では、そのほとんどの犯行において、「食糧を安く売ってくれる農家を紹介する」という言葉を使い、女性たちを連れ出しています。

飽食の時代とも言われる現代に生きる我々には考えられないことですが、この事件が起きた当時は、太平洋戦争末期から戦後にかけて、特に食糧不足が酷かった時代であり、ラジオのインタビューにおいて子供に最近嬉しかったことを聞くと「米やパンが配給されたこと」と答えるほど、食糧の希少価値が高まっていました。

そのため、多くの人にとって、小平が使った「米が安く手に入る」などという言葉はとても甘美な響きとなり、結果としてこの食糧難は、飢餓とはまた違った形でさらなる犠牲者を生むこととなりました。

逮捕までの経緯

Police Arrest Detention - Free photo on Pixabay (674263)

これほど多くの被害者を出しているにも関わらず、海軍衣糧廠での女子隊員殺害から1年以上もの間、小平が逮捕されることはありませんでした。しかし、7人目の被害者となった緑川柳子さん殺害後、小平は遂に逮捕されることとなり、それまでの殺人生活に終止符が打たれました。

果たしてどのようにして小平の凶行が明るみに出ることとなったのでしょうか?緑川さん殺害から小平が逮捕されることとなった経緯を追っていきたいと思います。

7人目の被害者女性が発見された

Skull Cemetery Genoa - Free photo on Pixabay (674272)

1946年8月17日、芝公園の増上寺境内で死後10日ほど経っているであろう若い女性の腐乱死体が発見されます。当時この一帯は「闇の銀座」などとも呼ばれるデートコースとして知られており、最初は痴情のもつれによる犯行かと思われました。

しかし、柴公園内ではさらにもう一体の遺体が発見され、警察は連続殺人の線を疑い始めます。8月20日には、柴公園内で最初に発見された遺体は、捜索願が出されていた大相撲立行司の娘、緑川柳子さんであることが分かります。

母親の話では、緑川さんは8月4日に「就職口を探しに行く」と言って家を出たきり行方不明になっていたとのことでした。こうして、警察はこの事件を殺人事件として捜査しはじめます。

被害者の母親と面識があったことから逮捕

Woman Old Senior - Free photo on Pixabay (674280)

小平は緑川さん殺害前の8月4日に彼女の自宅を訪れており、その際、緑川さんの母親も小平と会っていました。さらに、緑川さんは日記の中で、行方不明になった8月6日に小平に会うことを書いていたため、これらが有力な手掛かりとなり、捜査線上に小平義雄という男が浮かび上がります。

さらに、緑川さんは小平と住所を交換しており、彼女の日記には小平の自宅住所も書いていたため、1年以上に渡って凶行を続けてきた小平は、渋谷の自宅にいたところをあえなく逮捕されました。

他の事件の自供をした

Sherlock Holmes Brexit London - Free image on Pixabay (674283)

緑川柳子さん殺害の容疑で逮捕された小平は、その他の事件についても自供を始めます。取り調べの際、警察官が栃木県で行われた石井ヨリさん殺害について問いただしたところ、混乱した小平は、同じく栃木県内で殺害した馬場寛子さん殺害について聞かれていると勘違いして自供を始めるなど、ボロを出すような場面もあったといいます。

こうして次々に小平の犯行は露見し、最終的には10人もの女性を強姦し、殺害したと供述しました。

裁判とその判決

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連続強姦殺人事件の犯人として逮捕された小平は、戦後に大きく変化した新しい憲法と新しい法律に則って裁きを受けることとなり、判決を言い渡されます。

果たして、凶悪な事件を起こした小平の罪状や判決の要旨は如何なるものだったのでしょうか?被害者に対する謝罪や、自身の行いに対しての後悔などはあったのでしょうか?

ここでは、公判から刑に処されるまでの小平の発言などと共に、この事件の終局となる裁判の様子を見ていきましょう。

7件が有罪、3件が無罪

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小平は逮捕後、1945年から1946年にかけて10人の女性に対しての強姦殺人を自供しています。しかし、小平の関与が疑われていた東横デパートの地下室で発見された遺体、品川のガレージで発見された遺体、芝山公園内で見つかった緑川柳子さんとは別の白骨化した遺体の3件に関しては証拠不十分として無罪となりました

こうして小平は、起訴に足る証拠が得られた7人の女性に対する強盗強姦殺人について有罪、証拠不十分であった3人の女性に対する強盗強姦殺人について無罪を言い渡されます。

公判での小平の発言

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (674267)

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