2019年8月19日 更新

ポリコレ棒の意味や心理とは?ポリティカル・コレクトネスの具体例も

最近何かと耳にする「ポリコレ棒」の意味をご存知でしょうか?ポリコレ棒とは政治的な正しさを口実にして、言論の自由や人の行動を制限・抑圧しようとすることを意味します。この記事ではポリコレ棒の具体例や過剰な正義を振りかざしてしまう心理について解説しています。

目次

芸能人や有名人の不倫報道がなされるたびに、当事者である家族以外の一般市民が謝罪を要求するという現象も、行き過ぎた「正義」の暴走だと言えるでしょう。

そもそも、不倫は極めてプライベートな事柄であり、倫理的に許されることではなかったとしても、不倫をしてしまった芸能人は本来、関係者である家族以外に謝罪をする必要性はありません。

にも関わらず、不倫をスクープされた芸能人たちは世間が勝手に騒いでいるだけなのに、「世間をお騒がせしてすみません」と、なぜか全く無関係の市民に謝罪を強いられるのです。

自分も浮気や不倫をしたことがあるにも関わらず、自分のことは棚に上げて不倫をした芸能人を苛烈に叩き、溜飲を下げたがる人々が多いと言えるでしょう。

小さな嘘をいつまでも過剰に叩き続ける

Business Businessman Male - Free photo on Pixabay (567929)

行き過ぎた正義の暴走の事例のひとつが、小さな嘘をいつまでも過剰に叩き続けるという現象です。もちろん嘘はよくありませんが、時には嘘をつくことが必要なこともあります。

また、人に損害を与えるようなものでく、小さな嘘であればそこまで執拗に批判をする必要性も理由もないはずです。

にも関わらず、ポリティカル・コレクトネスが独り歩きしてしまった結果、社会から以前のような寛容さが失われ、小さな嘘であってもまるで殺人や戦争犯罪を犯したかのようなバッシングを受けてしまうのが今日の問題だと言えるでしょう。

タバコを写すのはフィクションであっても悪影響のため放送禁止

Cigarettes Tobacco Harmful - Free image on Pixabay (567930)

ポリティカル・コレクトネスという考えが浸透するまでは、ドラマや映画の中で喫煙シーンがあるのはごく当たり前のことでした。時には未成年の設定の登場人物が喫煙をするシーンさえあったほどです。

しかし、近年では「青少年への悪影響」という観点から、たとえフィクションであっても喫煙シーンを入れるのは放送禁止の対象になってしまっています。

確かに映画やドラマの喫煙シーンを見て「かっこいい」と憧れを抱き、タバコに手を出す少年少女はいるかもしれませんが、だからと言ってそのような可能性がわずかに存在するというだけでタバコを放送禁止の対象にしてしまうのは行き過ぎであるという批判も存在します。

タトゥー=ヤクザ・反社会という根強い概念と批判

Hands Finger Tatoo - Free photo on Pixabay (567931)

日本社会は欧米に比べるとタトゥーに対してネガティブなイメージが強く、タトゥー=ヤクザ・反社会勢力という根強い考えが存在します。

そのため、たとえファッションでタトゥーを入れていたとしても、タトゥーのある芸能人はテレビカメラの前では肌色のテープを使ってそれを隠さなければなりません。

また、他の国や地域では宗教的・文化的な風習としてタトゥーを入れている人々がいるにも関わらず、タトゥーを一律的に悪しきものとして封殺しようとするのは、独善的な正義にほかならないのです。

「男だから」「女だから」という言葉のNG化

Yin Yang Emblem - Free vector graphic on Pixabay (567932)

固定的あるいは差別的なジェンダー・イメージの押し付けは人を確実に傷つけますし、公の場で責任ある政治家などの公人が「女は○○すべき」「男だから○○してはいけない」といった時代錯誤な発言をするのは、現代的な市民感覚からすると許されることではありません。

ですが、私的な会話の中で「女らしい」「男らしい」といった言葉を使っただけで、全体的な文脈を理解しようとせずその言葉尻を捉えて条件反射的に「性差別だ」と批判するのは、暴力的なポリコレ棒だと言えるでしょう。

ジェンダー・フリーは尊重されるべきですが、だからと言って従来的なジェンダー・イメージにもとづいた発言が封殺されるのは非寛容の表れだと言えます。

言葉狩りとなっている

Fist Bump Anger Hand - Free photo on Pixabay (567933)

ポリティカル・コレクトネスの本来の意味が忘れ去られ、それを独善的な正義を振りかざすための大義名分としている状況の中では、頻繁に言葉狩りが行われてしまいます。

人々の自由と平等を守るための概念として生まれたポリティカル・コレクトネスは、使い方を間違えると言論の自由を奪ってしまいかねないのです。

人々は「何か言うとすぐにポリコレ棒でたたかれるから何も言わないでおこう」と考え、自由な発言や議論が委縮してしまう恐れもあるでしょう。

ポリコレ棒の心理

Unknown Think Contemplate - Free vector graphic on Pixabay (567934)

ポリティカル・コレクトネスは人々を抑圧や差別から解放するための概念であるにも関わらず、それを自分の都合のいいように解釈して人々を抑圧し、自由を奪うための手段として無意識のうちに悪用してしまっている人も少なくありません。

このような人々は、その独善的な正義を他人に一方的に押し付けるといった暴力的な振る舞いをすることから、「ポリコレ棒」と揶揄して表現されています。

ここからは、そんなポリコレ棒がなぜ過剰な正義を他者に押し付けてしまうのか、その心理について見ていきましょう。

正しい事柄は言葉を選ばず発言していい

Legal Illegal Choose - Free photo on Pixabay (567936)

ポリコレ棒の心理としてまず考えられるのが、正しい事柄は言葉を選ばず発言していいと思い込んでいるということです。もちろん、言論の自由は全ての人に認められた権利です。

しかし、人権としての言論の自由が認められているからと言って、言葉を選ばずに誰かを傷つけるような発言を自由にしてよいかというと、法的な面では許されたとしても市民的なモラルの面では許されないでしょう。

それにもかかわらず、ポリコレ棒は「自分は正しいのだから何を言っても許される」と勘違いをしているのです。

正しい事柄を発言できる自分は優れている

Megaphone Loud Speaker - Free photo on Pixabay (567937)

ポリコレ棒になるのは必ずしも正義感にあふれた人ばかりではありません。正義感などかけらもなく、ただ単に正しい事柄を発言できる自分に酔いたいがためにポリコレ棒になってしまう人も少なくないのです。

「正しい」と思われていることを表面的に支持し、それを主張することで、「正しくない」ことを行っている人々を見下すことができます。

同時に、ポリコレを主張することで、自分は「正しくない」人々を「正しい」方向へと導くことのできる特別な存在だと信じたいのでしょう。

悪は根絶しなければならないし根絶できる

Terrorist Terror Happiness - Free photo on Pixabay (567938)

ポリコレ棒の中には、悪は根絶しなければならないし根絶できると信じ込み、正義感が空回りしてしまっている人も多くいます。人によって正しいと考えるもの・悪だとみなすものが異なってくるため、絶対的かつ客観的な正義というものは存在しないと言っても問題ないでしょう。

自分が勝手に「悪」だと思い込んでいるだけであって、他の人たちからすると「悪」ではないことも往々にしてありますし、自分と相容れない意見を持つ人々に「悪」というレッテルを安易に貼ってしまっていることも少なくありません。

しかし、ポリコレ棒は意見の相違や多様性を受け入れることを一切拒否し、歪んだ正義感から自分と少しでも意見を異にする人に「悪」のレッテルを貼って、弾圧する大義名分を得ようとするのです。

優れた人物・強者を引きずりおろしたい

Business Businessman Male - Free photo on Pixabay (567940)

3 / 5

関連する記事 こんな記事も人気です♪