目次
- 日本にもポリコレ棒増殖中
- ポリティカル・コレクトネス
- 政治的正しさ
- 社会的に公正・中立を表す言葉
- 職業や人種などで差別・偏見を防ぐ
- 世界的な流れとなっている
- 過剰な平等・公平を求める人々を「ポリコレ棒」と呼ぶ
- 棒を使い強者を過剰に叩くという意味
- トランプ大統領の発言によって注目されるようになる
- 具体的なポリティカル・コレクトネス
- 看護婦が看護師という呼び方に変わる
- スチュワーデスが客室乗務員・フライトアテンダントに変わる
- 人格障害がパーソナリティ障害という呼び方に変わる
- 女性の表現がMsに統一される
- 黒人をAfrican Americanと呼ぶ
- 過剰な正義に人々は疲れきっている
- メリークリスマスはキリスト教徒以外を差別する発言
- 不倫報道に関して家族以外の一般市民が謝罪を要求
- 小さな嘘をいつまでも過剰に叩き続ける
- タバコを写すのはフィクションであっても悪影響のため放送禁止
- タトゥー=ヤクザ・反社会という根強い概念と批判
- 「男だから」「女だから」という言葉のNG化
- 言葉狩りとなっている
- ポリコレ棒の心理
- 正しい事柄は言葉を選ばず発言していい
- 正しい事柄を発言できる自分は優れている
- 悪は根絶しなければならないし根絶できる
- 優れた人物・強者を引きずりおろしたい
- 皆が言っているから
- ポリコレ棒が増殖し続けると
- 想ったことを発言・発信できなくなる
- 批判されないように新しい事柄にチャレンジしなくなる
- 他者を許せなくなり自分も許されなくなる
- 一度の失敗により社会的に抹殺される
- ポリコレ棒にならないために考えるべきこと
- 発言する内容が相手のため及び自分のためになるのか
- 本当に自身が危惧する事柄がそれらによってもたらされるのか
- 相手の言動の真意について自分が正しく理解しているのか
- 相手の立場を想像し共感することが出来ているのか
- 自分の見えている部分に固執し過ぎていないか
- 正義であっても過剰さは他者を傷つけ破壊する
芸能人や有名人の不倫報道がなされるたびに、当事者である家族以外の一般市民が謝罪を要求するという現象も、行き過ぎた「正義」の暴走だと言えるでしょう。
そもそも、不倫は極めてプライベートな事柄であり、倫理的に許されることではなかったとしても、不倫をしてしまった芸能人は本来、関係者である家族以外に謝罪をする必要性はありません。
にも関わらず、不倫をスクープされた芸能人たちは世間が勝手に騒いでいるだけなのに、「世間をお騒がせしてすみません」と、なぜか全く無関係の市民に謝罪を強いられるのです。
自分も浮気や不倫をしたことがあるにも関わらず、自分のことは棚に上げて不倫をした芸能人を苛烈に叩き、溜飲を下げたがる人々が多いと言えるでしょう。
そもそも、不倫は極めてプライベートな事柄であり、倫理的に許されることではなかったとしても、不倫をしてしまった芸能人は本来、関係者である家族以外に謝罪をする必要性はありません。
にも関わらず、不倫をスクープされた芸能人たちは世間が勝手に騒いでいるだけなのに、「世間をお騒がせしてすみません」と、なぜか全く無関係の市民に謝罪を強いられるのです。
自分も浮気や不倫をしたことがあるにも関わらず、自分のことは棚に上げて不倫をした芸能人を苛烈に叩き、溜飲を下げたがる人々が多いと言えるでしょう。
小さな嘘をいつまでも過剰に叩き続ける
via pixabay.com
行き過ぎた正義の暴走の事例のひとつが、小さな嘘をいつまでも過剰に叩き続けるという現象です。もちろん嘘はよくありませんが、時には嘘をつくことが必要なこともあります。
また、人に損害を与えるようなものでく、小さな嘘であればそこまで執拗に批判をする必要性も理由もないはずです。
にも関わらず、ポリティカル・コレクトネスが独り歩きしてしまった結果、社会から以前のような寛容さが失われ、小さな嘘であってもまるで殺人や戦争犯罪を犯したかのようなバッシングを受けてしまうのが今日の問題だと言えるでしょう。
また、人に損害を与えるようなものでく、小さな嘘であればそこまで執拗に批判をする必要性も理由もないはずです。
にも関わらず、ポリティカル・コレクトネスが独り歩きしてしまった結果、社会から以前のような寛容さが失われ、小さな嘘であってもまるで殺人や戦争犯罪を犯したかのようなバッシングを受けてしまうのが今日の問題だと言えるでしょう。
タバコを写すのはフィクションであっても悪影響のため放送禁止
via pixabay.com
ポリティカル・コレクトネスという考えが浸透するまでは、ドラマや映画の中で喫煙シーンがあるのはごく当たり前のことでした。時には未成年の設定の登場人物が喫煙をするシーンさえあったほどです。
しかし、近年では「青少年への悪影響」という観点から、たとえフィクションであっても喫煙シーンを入れるのは放送禁止の対象になってしまっています。
確かに映画やドラマの喫煙シーンを見て「かっこいい」と憧れを抱き、タバコに手を出す少年少女はいるかもしれませんが、だからと言ってそのような可能性がわずかに存在するというだけでタバコを放送禁止の対象にしてしまうのは行き過ぎであるという批判も存在します。
しかし、近年では「青少年への悪影響」という観点から、たとえフィクションであっても喫煙シーンを入れるのは放送禁止の対象になってしまっています。
確かに映画やドラマの喫煙シーンを見て「かっこいい」と憧れを抱き、タバコに手を出す少年少女はいるかもしれませんが、だからと言ってそのような可能性がわずかに存在するというだけでタバコを放送禁止の対象にしてしまうのは行き過ぎであるという批判も存在します。
タトゥー=ヤクザ・反社会という根強い概念と批判
via pixabay.com
日本社会は欧米に比べるとタトゥーに対してネガティブなイメージが強く、タトゥー=ヤクザ・反社会勢力という根強い考えが存在します。
そのため、たとえファッションでタトゥーを入れていたとしても、タトゥーのある芸能人はテレビカメラの前では肌色のテープを使ってそれを隠さなければなりません。
また、他の国や地域では宗教的・文化的な風習としてタトゥーを入れている人々がいるにも関わらず、タトゥーを一律的に悪しきものとして封殺しようとするのは、独善的な正義にほかならないのです。
そのため、たとえファッションでタトゥーを入れていたとしても、タトゥーのある芸能人はテレビカメラの前では肌色のテープを使ってそれを隠さなければなりません。
また、他の国や地域では宗教的・文化的な風習としてタトゥーを入れている人々がいるにも関わらず、タトゥーを一律的に悪しきものとして封殺しようとするのは、独善的な正義にほかならないのです。
「男だから」「女だから」という言葉のNG化
via pixabay.com
固定的あるいは差別的なジェンダー・イメージの押し付けは人を確実に傷つけますし、公の場で責任ある政治家などの公人が「女は○○すべき」「男だから○○してはいけない」といった時代錯誤な発言をするのは、現代的な市民感覚からすると許されることではありません。
ですが、私的な会話の中で「女らしい」「男らしい」といった言葉を使っただけで、全体的な文脈を理解しようとせずその言葉尻を捉えて条件反射的に「性差別だ」と批判するのは、暴力的なポリコレ棒だと言えるでしょう。
ジェンダー・フリーは尊重されるべきですが、だからと言って従来的なジェンダー・イメージにもとづいた発言が封殺されるのは非寛容の表れだと言えます。
ですが、私的な会話の中で「女らしい」「男らしい」といった言葉を使っただけで、全体的な文脈を理解しようとせずその言葉尻を捉えて条件反射的に「性差別だ」と批判するのは、暴力的なポリコレ棒だと言えるでしょう。
ジェンダー・フリーは尊重されるべきですが、だからと言って従来的なジェンダー・イメージにもとづいた発言が封殺されるのは非寛容の表れだと言えます。
言葉狩りとなっている
via pixabay.com
ポリティカル・コレクトネスの本来の意味が忘れ去られ、それを独善的な正義を振りかざすための大義名分としている状況の中では、頻繁に言葉狩りが行われてしまいます。
人々の自由と平等を守るための概念として生まれたポリティカル・コレクトネスは、使い方を間違えると言論の自由を奪ってしまいかねないのです。
人々は「何か言うとすぐにポリコレ棒でたたかれるから何も言わないでおこう」と考え、自由な発言や議論が委縮してしまう恐れもあるでしょう。
人々の自由と平等を守るための概念として生まれたポリティカル・コレクトネスは、使い方を間違えると言論の自由を奪ってしまいかねないのです。
人々は「何か言うとすぐにポリコレ棒でたたかれるから何も言わないでおこう」と考え、自由な発言や議論が委縮してしまう恐れもあるでしょう。
ポリコレ棒の心理
via pixabay.com
ポリティカル・コレクトネスは人々を抑圧や差別から解放するための概念であるにも関わらず、それを自分の都合のいいように解釈して人々を抑圧し、自由を奪うための手段として無意識のうちに悪用してしまっている人も少なくありません。
このような人々は、その独善的な正義を他人に一方的に押し付けるといった暴力的な振る舞いをすることから、「ポリコレ棒」と揶揄して表現されています。
ここからは、そんなポリコレ棒がなぜ過剰な正義を他者に押し付けてしまうのか、その心理について見ていきましょう。
このような人々は、その独善的な正義を他人に一方的に押し付けるといった暴力的な振る舞いをすることから、「ポリコレ棒」と揶揄して表現されています。
ここからは、そんなポリコレ棒がなぜ過剰な正義を他者に押し付けてしまうのか、その心理について見ていきましょう。
正しい事柄は言葉を選ばず発言していい
via pixabay.com
ポリコレ棒の心理としてまず考えられるのが、正しい事柄は言葉を選ばず発言していいと思い込んでいるということです。もちろん、言論の自由は全ての人に認められた権利です。
しかし、人権としての言論の自由が認められているからと言って、言葉を選ばずに誰かを傷つけるような発言を自由にしてよいかというと、法的な面では許されたとしても市民的なモラルの面では許されないでしょう。
それにもかかわらず、ポリコレ棒は「自分は正しいのだから何を言っても許される」と勘違いをしているのです。
しかし、人権としての言論の自由が認められているからと言って、言葉を選ばずに誰かを傷つけるような発言を自由にしてよいかというと、法的な面では許されたとしても市民的なモラルの面では許されないでしょう。
それにもかかわらず、ポリコレ棒は「自分は正しいのだから何を言っても許される」と勘違いをしているのです。
正しい事柄を発言できる自分は優れている
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ポリコレ棒になるのは必ずしも正義感にあふれた人ばかりではありません。正義感などかけらもなく、ただ単に正しい事柄を発言できる自分に酔いたいがためにポリコレ棒になってしまう人も少なくないのです。
「正しい」と思われていることを表面的に支持し、それを主張することで、「正しくない」ことを行っている人々を見下すことができます。
同時に、ポリコレを主張することで、自分は「正しくない」人々を「正しい」方向へと導くことのできる特別な存在だと信じたいのでしょう。
「正しい」と思われていることを表面的に支持し、それを主張することで、「正しくない」ことを行っている人々を見下すことができます。
同時に、ポリコレを主張することで、自分は「正しくない」人々を「正しい」方向へと導くことのできる特別な存在だと信じたいのでしょう。
悪は根絶しなければならないし根絶できる
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ポリコレ棒の中には、悪は根絶しなければならないし根絶できると信じ込み、正義感が空回りしてしまっている人も多くいます。人によって正しいと考えるもの・悪だとみなすものが異なってくるため、絶対的かつ客観的な正義というものは存在しないと言っても問題ないでしょう。
自分が勝手に「悪」だと思い込んでいるだけであって、他の人たちからすると「悪」ではないことも往々にしてありますし、自分と相容れない意見を持つ人々に「悪」というレッテルを安易に貼ってしまっていることも少なくありません。
しかし、ポリコレ棒は意見の相違や多様性を受け入れることを一切拒否し、歪んだ正義感から自分と少しでも意見を異にする人に「悪」のレッテルを貼って、弾圧する大義名分を得ようとするのです。
自分が勝手に「悪」だと思い込んでいるだけであって、他の人たちからすると「悪」ではないことも往々にしてありますし、自分と相容れない意見を持つ人々に「悪」というレッテルを安易に貼ってしまっていることも少なくありません。
しかし、ポリコレ棒は意見の相違や多様性を受け入れることを一切拒否し、歪んだ正義感から自分と少しでも意見を異にする人に「悪」のレッテルを貼って、弾圧する大義名分を得ようとするのです。
優れた人物・強者を引きずりおろしたい
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