目次
- まな板ショーとは?
- まな板ショーとはどんなショーか
- いつの時代に行われていたか
- まな板ショーの語源
- どのようにして生まれた?まな板ショーの歴史
- 戦後すぐにストリップ劇場が生まれる
- ストリップが女性器を見せるショーに変化
- 過激化したストリップショーがまな板ショーへ
- ストリップの全盛期はいつ?終焉は?
- 1960~1970年代にはストリップ劇場は600館超
- 1970年代頃からストリップが過激化
- 1985年風営法の改正で終焉へ
- どんな時代だった?まな板ショーが始まった頃の日本
- 好景気から不況へ
- 渋谷が若者ファッションの発信地に
- アニメ「アルプスの少女ハイジ」「宇宙戦艦ヤマト」が放送開始
- アイドルやフォークソングのブームが起こる
- 国民的スポーツは野球
- ■誰がいる?ストリップ界で名を馳せた人物
- ストリップの帝王・瀧口義弘さん
- 伝説のストリッパー・ファイヤーヨーコさん
- 今もある?まな板ショーの現在
- 現在はまな板ショーは存在しない
- 現在の法律では公然わいせつ罪となる
- 違法営業で逮捕者が出たことも
- 今でもAVの題材などにはなる
- 現存する?ストリップ劇場の厳しい現状
- 存在はするが数はかなり少ない
- 規制が厳しくなり警察が介入することも
- 風営法の条件により新規店舗を作ることは困難
- 客離れが激しく存続が厳しい店も
- ダンサーをやりたがる人も減っている
- なぜ?ストリップ劇場離れが起こった理由
- 規制が厳しくなったから
- AVや動画サービスが充実してきたから
- 性への興味が低下しているから
- 他の種類の風俗店に人気を奪われたから
- 全盛期を知っている世代が高齢化してきたから
- 今では考えられない!まな板ジョーは実在していた
そして、1980年までにストリップショーはさらに過激さや、多様性が誕生し始めました。ストリップショーでは、女性ダンサー同士が絡み合う「レスビアンショー」や、SMプレイを見せる「残酷ショー」などが誕生します。その流れから、「まな板ショー」が生まれました。
集客を求めさらなる過激さを追求した結果、まな板ショーと呼ばれる本番行為を見せるショーが誕生したのです。ストリップショーの内容で、まな板ショーよりも過激だと言われたのが、ポニーとダンサー女性の性行為を見せる「獣姦ショー」でしょう。
集客を求めさらなる過激さを追求した結果、まな板ショーと呼ばれる本番行為を見せるショーが誕生したのです。ストリップショーの内容で、まな板ショーよりも過激だと言われたのが、ポニーとダンサー女性の性行為を見せる「獣姦ショー」でしょう。
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こういった過激なストリップショーが登場し、それらを目の当たりにした男性客がショック死したという事件もあります。また、ストリップステージ上で、腹上死した者が出てくるなど、過激さに歯止めがなくなっていきました。
当時のストリップショーやストリッパーの人気は目覚ましく、この頃は「ヌード・インテリジェンス」と呼ばれるストリップ専門雑誌も発売されていました。1985年の風営法制定まで、ストリップの人気はうなぎ登りであり、ストリップショーの内容は、過激さを増していったと言われています。
当時のストリップショーやストリッパーの人気は目覚ましく、この頃は「ヌード・インテリジェンス」と呼ばれるストリップ専門雑誌も発売されていました。1985年の風営法制定まで、ストリップの人気はうなぎ登りであり、ストリップショーの内容は、過激さを増していったと言われています。
ストリップの全盛期はいつ?終焉は?
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ストリップの歴史を、年代ごとに簡潔にご紹介していきます。ストリップの全盛期や過激化した年代、そして衰退を年代として数字で見ていくと、より具体的に歴史が理解できますし、これらが遠い昔の出来事ではないことが理解できるでしょう。
1960~1970年代にはストリップ劇場は600館超
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ストリップの全盛期は、女性器を露出し始めた1960年から、まな板ショーが登場した1970年代頃です。全盛期では、ストリップ劇場は、全国で600館を超えたと言われています。
ストリップ劇場が特に多かったのは、関東地区と関西地区です。中部や九州地区にも存在していましたが、温泉街と呼ばれる街にも、数多くのストリップ劇場が誕生していきました。
ストリップ劇場が特に多かったのは、関東地区と関西地区です。中部や九州地区にも存在していましたが、温泉街と呼ばれる街にも、数多くのストリップ劇場が誕生していきました。
1970年代頃からストリップが過激化
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ストリップ全盛期の流れから、1970年代にはストリップショーが過激化していきます。まな板ショーや獣姦ショーなどの過激なストリップショーが出回り始めたのも、1970年頃です。
過激なショーとしては、他に「花電車」や「天狗ベッド」などもあります。まな板ショーの派生として「白黒」といったショーも行われていました。
過激なショーとしては、他に「花電車」や「天狗ベッド」などもあります。まな板ショーの派生として「白黒」といったショーも行われていました。
1985年風営法の改正で終焉へ
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こういったストリップの過激さが落ち着いたのは、1985年風営法の改正がきっかけです。1984年にも、風営法が改正されましたが、大きな改正が見られたのは、1985年になります。
営業時間の設定や、風俗営業取締範囲を大幅に広げ、「のぞき部屋」や「ファッションマッサージ店」なども、管轄内となりました。
こういった大幅な改正により、営業できなくなるストリップ劇場や、ショーの内容を改めなければならなくなったことから、ショーの過激さも減少し、ストリップ全体が徐々に衰退していきます。
営業時間の設定や、風俗営業取締範囲を大幅に広げ、「のぞき部屋」や「ファッションマッサージ店」なども、管轄内となりました。
こういった大幅な改正により、営業できなくなるストリップ劇場や、ショーの内容を改めなければならなくなったことから、ショーの過激さも減少し、ストリップ全体が徐々に衰退していきます。
どんな時代だった?まな板ショーが始まった頃の日本
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ストリップショーが過激さを増しはじめ、まな板ショーなどの過激演出を見せだした1970~1980年は、どういった時代だったのでしょうか。ストリップの歴史とともに、日本の歴史や時代の流れについても、知っていきましょう。
好景気から不況へ
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1970年頃は、好景気から不況に差し掛かっている最中でした。1965年では、前年度と比べ実質経済成長率が激しく減少し、「昭和40年不況」とも呼ばれます。この流れは、1966年に回復の見込みを見せましたが、1973年オイルショックが起こり、さらに混乱が起こりました。
また追い打ちをかけるように、1980年代には円高不況へと続くため、この頃の日本は短期的に急変動を繰り返した、不安定な景気状況だったと言われています。
また追い打ちをかけるように、1980年代には円高不況へと続くため、この頃の日本は短期的に急変動を繰り返した、不安定な景気状況だったと言われています。
渋谷が若者ファッションの発信地に
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ストリップ全盛期、渋谷は最も盛んな街の一つでした。「道頓堀劇場」と呼ばれるストリップ劇場があり、ロック座や東洋ショー劇場と並ぶストリップ業界大手の一つです。
1985年に風営法が改定されるまでは、渋谷はストリップの街として有名でした。しかし、風営法改定によって、ストリップの人気が衰退した後は、若者のファッション発信地として、有名になっていきます。
1985年に風営法が改定されるまでは、渋谷はストリップの街として有名でした。しかし、風営法改定によって、ストリップの人気が衰退した後は、若者のファッション発信地として、有名になっていきます。
アニメ「アルプスの少女ハイジ」「宇宙戦艦ヤマト」が放送開始
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ストリップ全盛期であった1974年1月、テレビではヨハンス・スピリの小説である「アルプスの少女ハイジ」が放映されるようになりました。他には、「宇宙戦艦ヤマト」が放送され、絶大な人気を獲得していきます。
宇宙戦艦ヤマトは、1977年劇場公開もされました。当時は、プラモデルや模型も発売され、子供たちの興味を一身に集めていたと言われています。
宇宙戦艦ヤマトは、1977年劇場公開もされました。当時は、プラモデルや模型も発売され、子供たちの興味を一身に集めていたと言われています。
アイドルやフォークソングのブームが起こる
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1960年代では、ロックバンド風の音楽スタイルで、グループ・サウンズというジャンルが発展していきました。ストリップ全盛期である1970年代では、フォークシンガーが立て続けにデビューし、フォークソングブームを巻き起こします。
フォークソングブームと同時期に、アイドルブームも到来します。女性アイドルだけではなく、御三家と呼ばれる男性アイドルも誕生しました。また、1985年には、現在にも通ずるアイドルグループが誕生します。それは、「おニャン子クラブ」です。
現在の有名アイドルAKB48の楽曲を手掛けている秋元康は、おニャン子クラブのプロデュースを行っていたことは有名な話でしょう。
フォークソングブームと同時期に、アイドルブームも到来します。女性アイドルだけではなく、御三家と呼ばれる男性アイドルも誕生しました。また、1985年には、現在にも通ずるアイドルグループが誕生します。それは、「おニャン子クラブ」です。
現在の有名アイドルAKB48の楽曲を手掛けている秋元康は、おニャン子クラブのプロデュースを行っていたことは有名な話でしょう。
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