2019年3月26日 更新

千と千尋の神隠しに登場する湯女の意味は?江戸時代に栄えた湯女を解説

大ヒットを記録したスタジオジブリ作品である「千と千尋の神隠し」。宮崎駿監督が『日本は全て風俗産業の様な社会』とも語っているこの作品には、それを象徴とするキャラクターとして“湯女”が登場します。この記事では、そんな“湯女”について意味や歴史と共にご紹介します。

湯女の意味とは

Towel Rose Clean - Free photo on Pixabay (121886)

「千と千尋の神隠し」では男性従業員はカエル、一部の女性従業員はナメクジをモチーフに描かれています。このナメクジをモチーフに描かれているのが“湯女”です。

“湯女”は江戸時代になり最盛期を迎えますが、始まりはそれより前であったそうです。そもそも“湯女”とは?何故“湯女”を抱えた湯屋が栄えたのか?

そんな疑問を持たれる方の為にまず初めは、この“湯女”の意味や行われていたサービス、栄えた理由についてご紹介していきましょう。

湯女の意味やサービスについて

Animal Monkey Baby Japanese - Free photo on Pixabay (121885)

“湯女”は“ゆな”と読みます。江戸時代初期より働いていた、銭湯で髪すきや垢すりといったサービスを提供していた女性の事を言います。中世の有馬温泉などの温泉宿を起源にやがて都市部に移入されていきました。

しかし、浸透していくにつれて次第に飲食や音曲、売春まで行われるようになっていきました。当時、女性が圧倒的に不足していた為、江戸の男達はお風呂屋さんへこぞって行くほど人気があったそうです。

江戸時代の湯女の実態

Lips Red Woman - Free photo on Pixabay (121887)

江戸時代の湯屋は男女混浴の習慣があった。又、入浴料は他の物価に比べ安く、湯女の他に三助(さんすけ)と呼ばれる奉公人も居て湯屋の雑務をこなしていた。後に、この“三助”は“湯女”が廃止された後、“湯女”に代わって浴客の垢すりなどの世話役として主流になっていきます。

湯女の実態は遊女となんら変わりのないもので、湯女を置いた湯屋は非常に繁盛し、中には20〜30人近くの湯女を置く湯屋もあったそうです。

江戸時代には吉原と並ぶ勢いがあった湯女

Board Game Checkmate Chess - Free photo on Pixabay (121958)

今でこそ「千と千尋の神隠し」を観て“湯女”という存在を知る人が増えたでしょうが、実はこの“湯女”、江戸時代の風俗産業で最も有名な“吉原遊郭”と並ぶほど勢いがあったのはご存知でしょうか。

しかし、そんな勢いがあったのにも関わらず“湯女”は次第に衰退の一途をたどって行くこととなります。次は江戸時代の風俗産業の中から何故“湯女”は廃れて行ったのか、その原因と江戸幕府との関りについて詳しく解説していきましょう。

吉原遊廓とは

Japanese Umbrellas Umbrella - Free photo on Pixabay (122251)

“吉原遊郭”は今でも最も有名な江戸時代の風俗産業・文化を代表する一つです。“吉原遊郭”は江戸幕府により公認されていた遊郭です。大規模な遊郭は江戸だけでなく、大阪・京都・駿府・長崎などの地方都市にも存在していましたが、江戸の“吉原遊郭”はその中でも最大級の規模を持っていました。

最盛期の時は、数千もの遊女を抱えていたとされています。始めは江戸日本橋(現在の日本橋人形町)の近くにあったのが、明暦の大火に見舞われ日本堤に移転。呼び名も前者と後者で変わり、元吉原・新吉原と言われていたそうです。

一時は吉原を衰退させるほどの勢い

Flames Heat Fire - Free photo on Pixabay (122255)

当時の風俗産業では、娼婦の中でも公に営業許可を与えられている“公娼”と、反対に与えられていない“私娼”と区別されていた。吉原遊郭の遊女達は幕府公認、つまり公許を得ていた為“公娼”、“湯女”の場合は公許を得ていないものだった為“私娼”にあたりました。

“湯女”は“私娼”でありながらも、吉原遊郭と同じく店を堂々と張って営業を行い、一時は「丹前風呂」の人気などによって“吉原遊郭”と相対するほどの勢力にまでなっていました。人気のあまり吉原の“公娼”である遊女の中にも湯屋へ出稼ぎに出る者が居る程であったそうです。

幕府は禁止令を出す

Unauthorised Denied Ban - Free vector graphic on Pixabay (122259)

湯屋が“湯女”を雇い、遊女同等の商売をしている事はやがて幕府の目に留まり、風紀上の問題として取り上げられるようになりました。又、幕府は営業許可を与えていたのは吉原遊郭だけであり、“湯女”を抱えた湯屋に客を取られてしまうということは吉原遊郭にとって営業妨害の何ものでもありませんでした。

結果、吉原からの申し出を受け幕府は湯屋に対し取り締まりを始め、最終的に多くの湯屋が営業停止を命じられ、同時に“湯女”も禁止されるようになりました。

その後も幕府と風呂屋のイタチごっこ

Cave Girl Chase Comics - Free vector graphic on Pixabay (122267)

吉原からの申し出後“湯女”を抱えている湯屋が厳しく取り締まられるようになったものの、完全に活動を抑えるには暫く至らずイタチごっこが続くようになります。

というのも生活の中に湯屋は密接であったことと、“湯女”自体は取り締まれても客の給仕をする名目で抱え込まれた女性までは取り締まれなった為にあります。名目を変えることで幕府からの取り締まりを逃れる店の中には、旅籠屋が抱える飯盛女という女性たちも名目上では飯盛女であったが、実は“私娼”だったという例もあります。

又“湯女”の場合、男女混浴という習慣も要因の一つとしてありました。幕府は寛政の改革の一環として混浴を禁止するも改革が挫折し、結果元の男女混浴に戻ってしまいました。

禁止後は三助が主流に

Arm Exercise Fist - Free vector graphic on Pixabay (122274)

度重なる禁止令の後、“湯女”は禁止されるようになりました。その後、“湯女”に代わって浴客の垢すりや髪すきの世話を担うようになったのが“三助”と呼ばれる男性の奉公人です。“三助”とは湯屋に仕える男衆における一つの階級であり、使用人の中では最高の位にあたります。

男性は勿論女性客の世話も“三助”が担う為、大勢の裸の女性客の中という環境への耐性が必要でした。その為、“三助”になる為には見習いから始まり、長い年月を掛けて下足番や釜焚きなどの雑務を覚えてようやく“三助”になる事が許されたそうです。

江戸時代に最も勢いのあった丹前風呂

Umbrella Japanese Umbrellas Japan - Free photo on Pixabay (122367)

“湯女”を抱えた湯屋で最も勢力があり有名だったのが「丹前風呂」です。「丹前風呂」では美しい“湯女”を多く抱えていた為、非常に人気があったそうです。

又、「丹前風呂」では文化や流行が多く起こった場所でもあり、最終的に吉原遊郭の太夫まで登り詰めた遊女“勝山”を出した湯屋でもあります。次は、そんな「丹前風呂」と元“湯女”であり吉原の太夫になった遊女“勝山”について詳しくご紹介していきます。

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