2019年9月11日 更新

金屏風事件の裏に潜むジャニーズの闇と中森明菜の悲劇とは

平成の初め、芸能界をにぎわせた「金屏風事件」をご存じですが。近藤真彦と付き合っていた中森明菜さんがジャニーズ事務所に騙されて会見を行ったとされている事件です。この事件にかんするデマや竹下昇元首相やSMAPの会見にも携わった小杉という人物などについて調べました。

目次

Audio Close-Up Electricity - Free photo on Pixabay (583979)

近藤真彦さんは、1980年代に短い期間ですが、たのきんトリオとして活躍しました。たのきんトリオとは、当時ジャニーズ事務所に所属していた田原俊彦(トシちゃん)、野村義男(ヨッちゃん)、近藤真彦(マッチ)からなるグループ名です。

名前の由来は、田原俊彦の「た」、野村義男「の」、、近藤真彦「きん」からそれぞれ取って「たのきん」となりました。メンバーの頭文字といえば最近では、KAT-TUNが有名ですが、それよりももっと以前からメンバーの頭文字を取ったグループ名があったのですね。

たのきんトリオは、グループと言いながらもソロ活動が中心でした。「3年B組金八先生」の第1シリーズに生徒役で出演した。3人を同時に売り出すにはある程度まとめたほうが都合がよかったのでしょうね。今で言う「ユニット」「バーター」のような感じでしょうか。

「スニーカーぶる~す」でソロ歌手活動

Man Microphone Music - Free photo on Pixabay (584059)

近藤真彦さんは、1980年12月に「スニーカーぶる〜す」でソロ歌手としてデビューします。デビュー後は、1980年代を代表する男性アイドルとして絶大な人気を誇りました。

当時は、「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」などの歌番組がたくさん放送されていました。観覧もできていたので、ファンによる「親衛隊」も誕生しました。「G・U・T・Sこんどーまさひこアダルトタッチのセクシーボーイ。ま〜っさひ〜こ〜」という歌の合間の掛け声も生まれました。今でいうならアイドルオタクのオタ芸の走りですね。

レース活動を始める

Fast Speed Racing - Free photo on Pixabay (583982)

近藤真彦さんは、近年はF1レーサーとしても活躍しています。F1に初参戦したのは、1984年に富士フレッシュマンレース第2戦です。その後、F1レーサーの星野一義さんのもとで本格的にレース活動を始めます。1988年~1993年にかけては、全日本F3選手権に参戦しました。

翌年の1994年にはフランスのル・マン24時間レースに初参戦しています。また、この年、全日本GT選手権のGT1クラスに参戦して初優勝しています。翌年も連覇し、その後も様々な大会で表彰台に登ったり、入賞をしています。2002年に監督業に専念するためにドライバーとしての活動を休止しています。

中森明菜が自殺未遂とその理由

Bedroom Bed Linen - Free photo on Pixabay (584264)

順調に交際していたかのように見えていた中森明菜さんと近藤真彦さんですが、ある日、中森明菜さんが自殺未遂騒動を起こします。いったいどこで、なぜ自殺を図ったのかみていきましょう。

近藤真彦の自宅で自殺未遂

Modern Minimalist Bathroom Bath - Free photo on Pixabay (584274)

1989年(平成元年)7月11日夜の夜の事です。近藤真彦さんが東京・六本木の自宅マンションに帰ると、浴室に恋人である中森明菜さんが血まみれで倒れていました。中森明菜さんは、左腕の内側を刃物で切っていました。

交際相手である近藤真彦さんの自宅で命を絶とうとしていました。この時、中森明菜さんは23歳、近藤真彦さんは24歳とアイドルとして人気絶頂の時でしたから大騒動になり、スキャンダラスに報じられました。

結婚を引き延ばされていた

Wedding Love Happy - Free photo on Pixabay (584286)

中森明菜さんが自殺未遂騒動を起こした当時、様々な憶測が飛び交いました。その中の1つが、近藤真彦さんがと中森明菜さんとの結婚を引き延ばしていたからではないかというものです。交際している中ですから結婚も意識していたでしょう。中森明菜さんは実の家族との仲が不安定であったりと幸せな結婚を夢見ていました。

しかし、当時人気絶頂の2人ですから事務所の反対もあったのでしょう。特にジャニーズ事務所は今でも既婚者が少ないことをみても相当は反対があったでしょう。なかなか自分と結婚すると言ってくれない近藤真彦さんを困らせたかったのではないかとの憶測がありました。

松田聖子と近藤真彦の密会キス写真

Couple Romance Love - Free photo on Pixabay (584319)

中森明菜さんの自殺未遂騒動の引き金になったのではないかと言われている原因の2つ目は、1989年2月にと週刊誌「フライデー」によって報じられた近藤真彦さんと松田聖子さんのNYでの密会でした。

実際には、レコード会社の人たちが周りにいて友達として会っていたようですが、週刊誌が面白おかしく一部分だけ切り取って「密会」と報じたようです。今でも、よく使われる手法ですね。当時は、今ほどネットが普及しておらず週刊誌やテレビの報道が全てでしたので、中森明菜さんはさぞ不安だったでしょうね。

明菜が貯めていた結婚資金数千万をレース資金に使われた

Ferrari Formula 1 Fernand Alonso - Free photo on Pixabay (584365)

中森明菜さんの自殺未遂騒動の引き金になったのではないかと言われている原因の3つ目は、近藤真彦さんが中森明菜さんのお金を使い込んでいたのではないかということです。当時、お2人とも人気絶頂のアイドルでしたが、中森明菜さんのほうがヒット曲も多く売れていました。

そのため、近藤真彦さんのレースのための費用を中森明菜さんが援助していたと言われています。その中でも、2人の結婚のために貯めていた数千万もの金額を信じていた近藤真彦さんに渡しますが、そのお金は2人のために使われることはなくレース資金へと消えていったと言われています。

ジャニーズ事務所の闇、金屏風事件を仕組んだメリー副社長

Press Conference Journalist Media - Free photo on Pixabay (584439)

平成最初の芸能スキャンダルとして人々の記憶に残る金屏風会見を仕組んだのは、ジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長だと言われています。金屏風会見の様子を詳しく見ていきましょう。

メリーは明菜に婚約会見をすると騙して呼び出した

Old Woman Tuxedo - Free photo on Pixabay (587145)

中森明菜さんの自殺未遂騒動の時、近藤真彦さんの自宅へ真っ先にやってきたのがメリー喜多川さんです。中森明菜さんが入院後もメリー喜多川さんはかいがいしく身の回りの世話をします。

その間に当時中森明菜さんが所属していた研音が給料を詐取しているなど吹込み独立しようとさせます。中森明菜さんがも情にもろいところがあり、メリー喜多川さんを信用していきます。

自殺未遂騒動を年内に収束させたかったメリー喜多川さんは1989年(平成元年)12月31日に「婚約会見をするから」と中森明菜さんを呼び出しました。

金屏風の前で和解の握手をさせられる

2 / 7

関連する記事 こんな記事も人気です♪