2019年8月27日 更新

生臭坊主とは?瀬戸内寂聴は生臭坊主?そう呼ばれる理由は?

生臭坊主という言葉を聞いたことがありますか。坊主は清い人というイメージがありますが、破戒僧や瀬戸内寂聴のような人も坊主の中にはたくさんいるのです。生臭坊主の別の言い方などを含めてご説明いたしますので確認していきましょう。

目次

さらには聖職者にも関わらず、修道女を性奴隷として扱っていたということも発覚しています。聖職者でなくても大きな問題として扱われるようなことですが、これが聖職者によって行われてきたことや、さらには同じ修行を行っている修道女に対して行っていたという事実は、もう何でもありのように感じてしまいます。

おそらくこうしたニュースは世界でとても大きな批判を呼ぶことになったはずです。ただ、こうした事件はほんの一部かもしれません。

破戒僧たちの愚行から導き出される答えとは

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では、なでこうした聖職者に対する愚行が行われることになるのでしょうか。今まで聖職者や坊主は清い人というイメージがありましたが、こうした愚行問題を聞けば、坊主もただの人というイメージになってきたのではないでしょうか。

破戒僧たちの愚行から導き出される答えをご紹介します。

人間は欲望に勝てない

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結果的に、坊主も人間だということです。つまりは、人間が持っている欲望には坊主であっても勝てないということになります。

人間にはさまざまな欲望が渦めいていることは理解できるでしょう。坊主はこうしたことを我慢して修行に励んでいたこともあるでしょうが、修行を終えた坊主は今までの欲望などが全て解放されてしまうのかもしれません。

そのため、一般的な人では考えられないような行動を、坊主などが取ってしまうことになるのもしれません。

弱い生き物

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そして、人間はやはり弱い生き物なのです。悪いことだと分かっていながら、欲望には勝てずその行動を起こしてしまうのです。

おそらく生臭坊主も、最初はやってはいけないことだという認識があり、自分を抑えていたはずです。しかし、一度その抑えていた気持ちが緩み、どんどんとその弱い気持ちが解放されていったのではないかと思います。

一般的な人でも、さらには坊主でもあって人間は常に弱い生き物であり、欲望には勝てない生き物なのです。

人を導く立場であっても間違いを起こす

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聖職者などの人を導くような立場であっても、やはり間違いは起こすのです。つまりは、聖職者も人間であり、精密機械のような存在ではないということなのです。

いくら厳しい修行を行ってきても、取り返しがつかいないような失敗も起こすのです。確かに私達のような一般的な人間よりも優れている一面もありますが、同時に私達のような一般的な人間と全く変わらないような一面もあるということです。

こうした間違いは、昔からあったのかもしれません。

一般人が全く間違わず自分を律し続けるのはほぼ不可能

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また、一般人が全く間違わず、自分を律し続けることはほぼ不可能なのです。自分を律し続ければ続けるほど、それは自分自身を苦しめていることにもなるのです。

一般人が間違いを起こすように、聖職者も同じように間違いを犯すのです。自分自身に厳しくしても、結果は同じようになるということでしょう。

間違いは誰でも起こします。しかし、その間違いも度を過ぎてしまえば大きな問題になってしまいます。

聖職者と一般人とでは何も違いもないのかもしれません。

間違いを犯した人々を責めるのではなく導きチャンスを与える重要性

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聖職者が悪いことをしたときには、一般人よりも酷い仕打ちを受けることになります。確かに聖職者だからこうした悪いことはしないだろうという考えから、軽微なことでも悪行だと感じてしまう面もあるかもしれません。

しかし、聖職者も一般的な人と同じように間違いを起こした後には、その間違いを認めてまた立ち直ることができるチャンスを与えるのが当然です。ミスを犯したことで社会から排除するのではなく、チャンスは平等に与えるべきでしょう。

坊主もしょせん人

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坊主もしょせんは人間です。私達との違いは何もありません。

そう坊主を見ることができれば、より坊主が近い存在に思えてくるはずです。私達と同じ人間だから悪いということではないのです。

修行の経験がある一般人として見てあげるようにすることが大切なのです。

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