目次
加山雄三のプロフィール
加山雄三さんは1937年4月11日生まれ。神奈川県出身です。父に俳優の上原謙さんをもちます。俳優としての顔の他に、シンガーソングライターやギタリスト、ウクレレ奏者などの顔もあり、実に多彩な活躍をされています。日本テレビ系列の24時間テレビのテーマソング「サライ」の作曲者としても有名です。
加山さんは慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学法学部政治学科へ進み、卒業後の1960年に東宝に入社します。同じ年に「男対男」で映画デビューを果たします。翌年には歌手デビューも果たし「君といつまでも」を始め数々のヒット曲を飛ばします。
俳優としては映画若大将シリーズが代表作で、若大将は加山さんのニックネームともなります。紅白歌合戦の司会経験もあり、曲紹介の時「仮面舞踏会」を「仮面ライダー」と誤って紹介したなど独特のエピソードも事欠きません。
加山さんは慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学法学部政治学科へ進み、卒業後の1960年に東宝に入社します。同じ年に「男対男」で映画デビューを果たします。翌年には歌手デビューも果たし「君といつまでも」を始め数々のヒット曲を飛ばします。
俳優としては映画若大将シリーズが代表作で、若大将は加山さんのニックネームともなります。紅白歌合戦の司会経験もあり、曲紹介の時「仮面舞踏会」を「仮面ライダー」と誤って紹介したなど独特のエピソードも事欠きません。
舘ひろしは昔からハンサムだった!?若い頃は何をしていた? - POUCHS(ポーチス)
今では俳優としてさまざまな映画やドラマに出演している舘ひろしさんですが、舘ひろしさんの若いころの顔や、何をしてたかご存知の方は少なくなってきたのではないでしょうか。なので今回は、舘ひろしさんの昔の画像やエピソードなどについてご紹介していきます。
加山雄三の船「光進丸」炎上事件
多彩な顔を持ち芸能界に長くいるだけあってエピソードも豊富な加山さんですが、その数々のエピソードの中でもショッキングだったものの一つが「光進丸」炎上事件です。
世間にも大きなインパクトを与えましたが、加山さん本人にも非常に大きな衝撃をもたらしたこの光進丸炎上事件についてまとめていきます。
世間にも大きなインパクトを与えましたが、加山さん本人にも非常に大きな衝撃をもたらしたこの光進丸炎上事件についてまとめていきます。
加山雄三の光進丸
そもそも「光進丸」とは何か。それは加山さんが事実上のオーナーとして所有していた船の名前です。加山さんは3代に渡って船を所有しており、すべてに「光進丸」と名付けてきました。炎上したのは3代目の光進丸です。
3代目光進丸は全長約25.6m・船幅6.61m・総重量104tの船です。910馬力のエンジンを2機搭載し定員は18名です。船体は加山さん自らが設計するほどの力の入れようで、1982年に完成しました。それ以来40年近くも加山さんの相棒の一人として動いてきました。
3代目光進丸は全長約25.6m・船幅6.61m・総重量104tの船です。910馬力のエンジンを2機搭載し定員は18名です。船体は加山さん自らが設計するほどの力の入れようで、1982年に完成しました。それ以来40年近くも加山さんの相棒の一人として動いてきました。
加山雄三の船への情熱
加山さんが自ら船を所有するほど船に情熱を捧げるようになったきっかけは小学生時代の家庭教師でした。その家庭教師は東京商船大学(現在は東京海洋大学)の学生で、その先生から船の設計図を見せて貰うなどの出来事がきっかけで船に興味を持ち始めます。
東宝に入社したのも船の資金が調達できるからというのが理由の一つらしく、いかに船が中心であったかわかります。小型船舶免許や5級海技士免許など免許の取得はもちろん、3代目光進丸以外にも合計10隻以上の船の設計を行っており、船に対して相当の情熱を注いでいたことがわかります。
東宝に入社したのも船の資金が調達できるからというのが理由の一つらしく、いかに船が中心であったかわかります。小型船舶免許や5級海技士免許など免許の取得はもちろん、3代目光進丸以外にも合計10隻以上の船の設計を行っており、船に対して相当の情熱を注いでいたことがわかります。
光進丸炎上事件
それほどまでに船を愛する加山さん。ましてや3代目光進丸は自らが設計を手掛けたかけがえのない存在でした。そんな3代目光進丸が無残にも炎上したのは2018年4月1日の夜のことでした。
当時光進丸は静岡県の安良里漁港から30メートルほど離れた沖合に係留されていました。加山さんはこの時コンサートのため沖縄に滞在していました。また、出火当時の光進丸には誰も乗船しておらず死者や負傷者は出ませんでした。鎮火したのは4月3日の午後3時半頃でした。
当時光進丸は静岡県の安良里漁港から30メートルほど離れた沖合に係留されていました。加山さんはこの時コンサートのため沖縄に滞在していました。また、出火当時の光進丸には誰も乗船しておらず死者や負傷者は出ませんでした。鎮火したのは4月3日の午後3時半頃でした。
光進丸の最期
火が消し止められた時には光進丸はほぼ全焼の状態でした。鎮火後には船内にたまった水の排水作業をしていましたが、4月4日の午前9時40分頃、そばに係留されていた作業船と共に横転し沈没してしまいます。火災の時に船に亀裂が入り、そこから入り込んだ海水が転覆の原因とされています。
転覆時には作業員が1人海に投げ出されましたが別の作業船に助けられています。沈んでしまった光進丸は4月18日に引き上げられ静岡県の清水港へ移送されました。
転覆時には作業員が1人海に投げ出されましたが別の作業船に助けられています。沈んでしまった光進丸は4月18日に引き上げられ静岡県の清水港へ移送されました。
加山雄三の記者会見
光進丸炎上の翌日の2018年4月2日。加山さんは午後7時から東京・羽田空港で緊急記者会見を行い、当時の心境を述べています。会見では「これほど悲しいことはなく、思い出は山ほどあり、半身を失ったぐらいつらい」といった悲痛な気持ちを率直に述べていました。
なお、加山さんは本来ならこの4月2日には光進丸に乗船予定でした。そして4月9日に予定していたコンサートも加山さんの精神的な影響を考慮して延期を発表しており、ショックの大きさがうかがえます。
また、炎上から約2か月後には「徹子の部屋」に出演し、光進丸の引き揚げに関わった船が偶然にも「幸神丸(こうしんまる)」という名前だと明かしてくれました。そして、神に抱かれていったんだという感慨にふけったそうです。
なお、加山さんは本来ならこの4月2日には光進丸に乗船予定でした。そして4月9日に予定していたコンサートも加山さんの精神的な影響を考慮して延期を発表しており、ショックの大きさがうかがえます。
また、炎上から約2か月後には「徹子の部屋」に出演し、光進丸の引き揚げに関わった船が偶然にも「幸神丸(こうしんまる)」という名前だと明かしてくれました。そして、神に抱かれていったんだという感慨にふけったそうです。
加山雄三の船の出火原因
では光進丸はなぜ炎上したのでしょうか。光進丸はカビの発生を防ぐために日常的にエアコンを稼働していましたが、出火当日も点検が行われ異常がないことが確認されていたそうです。そして4月18日に光進丸が清水港に移送されてから、静岡県警や下田海上保安部、下田消防本部により船体の実況見分が行われました。
エアコンの件があって静岡県警は電気系統のトラブルとみて調査を進めました。しかしながら、内部の焼損が激しく、結局出火原因が特定されることはありませんでした。ただし事件性はないだろうという見方でした。
エアコンの件があって静岡県警は電気系統のトラブルとみて調査を進めました。しかしながら、内部の焼損が激しく、結局出火原因が特定されることはありませんでした。ただし事件性はないだろうという見方でした。
光進丸放火の噂
via pixabay.com
警察等による実況見分では結局出火原因の特定はできませんでしたが、事件性はないだろうという見方で収まりました。しかしながら、やはり誰かによる放火が原因なのではないか?という噂も飛び出しました。
加山さんの光進丸といえば地元や関係者では名の通った船だと思われます。加山さん自身も相当の有名人ですので、こちらが思いもよらない理由を持った人がいて、光進丸に火を付けたという可能性もなくはないと思われます。このあたりの可能性はどうなのかまとめてみました。
加山さんの光進丸といえば地元や関係者では名の通った船だと思われます。加山さん自身も相当の有名人ですので、こちらが思いもよらない理由を持った人がいて、光進丸に火を付けたという可能性もなくはないと思われます。このあたりの可能性はどうなのかまとめてみました。
出火時に2度の爆発音
via pixabay.com
1 / 2