目次
- 34年越しに無罪が確定した松橋事件
- 松橋事件の概要
- 1985年熊本県で男性の遺体発見
- 宮田浩喜さんが自白を強要されて逮捕となる
- 裁判では無罪を主張
- 懲役13年の判決が下される
- 1999年刑期満了
- 警察に自白させられた内容
- 被害者と口論になったことがきっかけで殺意を抱く
- 切り出し小刀で殺害
- 切り出し小刀に巻きつけていた布片は燃やした
- 自白の矛盾点
- 燃やしたとされる布片が見つかる
- 切り出し小刀が凶器ではないことが判明
- 犯行時刻より後に被害者が目撃されていた
- 土足のまま上がり込んだのに足跡がない
- 2016年再審決定
- 検察が即時抗告や特別抗告をしたため再審が開かれたのは2019年
- 父の無実を信じていた長男は2017年に病死
- 宮田浩喜さんは認知症を患い寝たきりの状態
- 父や長男とは疎遠になっていた次男が裁判を傍聴
- 無罪が確定
- 即時抗告審を担当した検察官國井弘樹とは
- 障害者郵便制度悪用事件に関わった人物
- 現在はミャンマー日本国大使館一等書記官
- 無罪までに34年かかった理由
- 当初の国選弁護人に問題があった
- 検察が証拠を隠した
- 警察が事情聴取を74時間続けて精神的に参らせた
- 検察が再審開始を先延ばしにした
- 熊本で起きていたもう一つの冤罪事件
- 免田事件の概要
- 免田栄さんが自白を強要される
- 死刑判決が言い渡される
- 事件から34年後に無罪判決
- 冤罪事件は他にも起きている
- 財田川事件
- 松山事件
- 島田事件
- 冤罪事件は二度と起きてはいけない
via pixabay.com
2016年に再審開始が決定した後すぐに検察は抗告しています。即時抗告が棄却された後宮田さんの年齢や健康状態を考慮して特別抗告しないよう求めていた弁護側の要請を無視して特別抗告も行いました。
本来特別抗告は憲法違反や判例違反の理由でしか認められないものですが、検察は事実誤認の主張だけで特別抗告をしたのです。
一連の行動は宮田さんが亡くなり再審が行われなくなることを期待したためではないかと世間から強い批判を浴びました。実際に再審請求中に宮田さんを支えた長男が亡くなり宮田さん自身も脳梗塞の後遺症で寝たきりとなりました。
本来特別抗告は憲法違反や判例違反の理由でしか認められないものですが、検察は事実誤認の主張だけで特別抗告をしたのです。
一連の行動は宮田さんが亡くなり再審が行われなくなることを期待したためではないかと世間から強い批判を浴びました。実際に再審請求中に宮田さんを支えた長男が亡くなり宮田さん自身も脳梗塞の後遺症で寝たきりとなりました。
熊本で起きていたもう一つの冤罪事件
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熊本県では松橋事件が起きる前に免田事件という冤罪事件が起きていました。宮田さんも免田事件については、裁判の中で無罪を主張して再審で無罪が確定するケースとして知っていました。
松橋事件と同様に無罪が確定するまでに34年を要していて自白を強要されたことも共通しています。事件の概要や無罪判決に至った経緯を見ていきましょう。
松橋事件と同様に無罪が確定するまでに34年を要していて自白を強要されたことも共通しています。事件の概要や無罪判決に至った経緯を見ていきましょう。
免田事件の概要
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1948年12月30日に熊本県人吉市で夫婦2人が殺害される事件が起こりました。娘2人も重傷を負わされた上に現金が盗まれました。歳末警戒を終えて午前3時頃帰宅した長男が妹が助けを呼ぶ声を聞いて駆けつけ事件が発覚しました。
1949年1月13日に当時23歳だった免田栄さんが玄米を盗んだ罪で逮捕され、16日には殺人罪で逮捕されます。13~16日にかけては違法な拘束を受け、この間に自白を迫られることになりました。
1949年1月13日に当時23歳だった免田栄さんが玄米を盗んだ罪で逮捕され、16日には殺人罪で逮捕されます。13~16日にかけては違法な拘束を受け、この間に自白を迫られることになりました。
免田栄さんが自白を強要される
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13~16日にかけて拘束されている間、14日に机上で仮眠を許された以外は寝ることを許されませんでした。正座や腕立て伏せを強要されただけでなく殴るなどの暴行を受けて自白を強要されました。
事件当日には女性と会っていたというアリバイがあったものの、警察がアリバイの証人に対して一緒に居たのは事件の翌日だと言うように誘導します。
さらに検察が証拠品の鉈や犯人が犯行時に着ていたとされる服などを廃棄してしまいます。
事件当日には女性と会っていたというアリバイがあったものの、警察がアリバイの証人に対して一緒に居たのは事件の翌日だと言うように誘導します。
さらに検察が証拠品の鉈や犯人が犯行時に着ていたとされる服などを廃棄してしまいます。
死刑判決が言い渡される
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裁判では、自白は強要されたものでありアリバイもあるとして無罪を主張しましたが、聞き入れられることはなく1950年3月23日に死刑判決が言い渡されました。
控訴も上告も棄却され1952年1月5日に死刑が確定します。当時の法務大臣が死刑確定事件6件について特別恩赦を約束し、免田さんも特別恩赦が検討されましたが実現しませんでした。
免田さんは再審請求を行ったものの第5次請求まですべて棄却されました。ようやく第6次再審請求が認められて1979年9月27日に再審が開始します。
控訴も上告も棄却され1952年1月5日に死刑が確定します。当時の法務大臣が死刑確定事件6件について特別恩赦を約束し、免田さんも特別恩赦が検討されましたが実現しませんでした。
免田さんは再審請求を行ったものの第5次請求まですべて棄却されました。ようやく第6次再審請求が認められて1979年9月27日に再審が開始します。
事件から34年後に無罪判決
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再審ではアリバイを証明するものが提示されたことや検察側の主張する逃走経路が不自然なことが判明し1983年7月15日に無罪判決が言い渡されました。
事件から34年が経過していて死刑囚に対しては初めての無罪判決でした。刑事補償法に基づいて拘禁されていた分の補償金が9071万円支払われました。
地元では歓迎されたものの、補償金が高額であったことや真犯人が捕まっていないことから不安を感じて免田さんは保釈後地元を出ています。事件後は人を信用できなくなりました。
事件から34年が経過していて死刑囚に対しては初めての無罪判決でした。刑事補償法に基づいて拘禁されていた分の補償金が9071万円支払われました。
地元では歓迎されたものの、補償金が高額であったことや真犯人が捕まっていないことから不安を感じて免田さんは保釈後地元を出ています。事件後は人を信用できなくなりました。
冤罪事件は他にも起きている
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冤罪事件は他にも起きています。免田事件とともに四大死刑冤罪事件と言われている財田川事件、松山事件、島田事件について見ていきましょう。
どの事件も長期間拘束されていて無罪が確定したのは逮捕されてから30年近く過ぎた後です。冤罪で逮捕された人は刑務所にいる間に親兄弟や信頼していた人を亡くすなど辛い思いを経験しています。
どの事件も長期間拘束されていて無罪が確定したのは逮捕されてから30年近く過ぎた後です。冤罪で逮捕された人は刑務所にいる間に親兄弟や信頼していた人を亡くすなど辛い思いを経験しています。
財田川事件
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財田川事件は1950年2月28日に起きた殺人事件に伴う冤罪事件です。香川県三豊郡財田村で当時63歳だった男性が殺害された上に現金を奪われました。
同年4月1日に強盗事件を起こして逮捕された2人組が殺人の容疑でも取り調べを受けて、1人はアリバイが証明されて釈放されましたが谷口繁義さんはアリバイが証明できず厳しい取り調べを受けて自白を強要されました。
裁判では無罪を主張しましたが自白は信用できるとして死刑判決が言い渡されます。再審請求では警察が長期勾留と拷問で自白を強要したことや証拠をねつ造していたことが明らかになり1984年3月12日に無罪が確定しました。
同年4月1日に強盗事件を起こして逮捕された2人組が殺人の容疑でも取り調べを受けて、1人はアリバイが証明されて釈放されましたが谷口繁義さんはアリバイが証明できず厳しい取り調べを受けて自白を強要されました。
裁判では無罪を主張しましたが自白は信用できるとして死刑判決が言い渡されます。再審請求では警察が長期勾留と拷問で自白を強要したことや証拠をねつ造していたことが明らかになり1984年3月12日に無罪が確定しました。
松山事件
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松山事件は1955年10月18日に宮城県志田郡松山町の農家が全焼して、焼け跡から一家4人の遺体が見つかった事件に伴う冤罪事件です。
当時24歳だった斎藤幸夫さんは犯行当日に地元を去った人物として厳しい取り調べを受けて自白を強要されました。1957年10月29日に死刑が言い渡され、控訴・上告が棄却されて1960年11月1日に死刑が確定しました。
再審請求で警察が留置所にスパイを送り込んで自白に追い込んでいたことや証拠をねつ造していたことが明らかになり1984年7月11日に無罪が確定しました。獄中生活は28年にも及んでいます。
当時24歳だった斎藤幸夫さんは犯行当日に地元を去った人物として厳しい取り調べを受けて自白を強要されました。1957年10月29日に死刑が言い渡され、控訴・上告が棄却されて1960年11月1日に死刑が確定しました。
再審請求で警察が留置所にスパイを送り込んで自白に追い込んでいたことや証拠をねつ造していたことが明らかになり1984年7月11日に無罪が確定しました。獄中生活は28年にも及んでいます。
島田事件
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島田事件は1954年3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人に伴う冤罪事件です。当時6歳の女の子が行方不明になり3月13日に遺体で見つかりました。
1954年5月24日に当時25歳だった赤堀政夫さんが逮捕されて、拷問による自白の強要を受けました。裁判では無罪を主張しましたが1960年12月5日に上告が棄却され死刑が確定します。
証拠は検察の供述調書だけで物証に乏しい事件でしたが再審請求で1989年7月31日に無罪が確定しました。複数の目撃証言と人相も体格も違うのに警察が無視したことや供述した殺害方法と司法解剖した結果が異なっていたからです。
1954年5月24日に当時25歳だった赤堀政夫さんが逮捕されて、拷問による自白の強要を受けました。裁判では無罪を主張しましたが1960年12月5日に上告が棄却され死刑が確定します。
証拠は検察の供述調書だけで物証に乏しい事件でしたが再審請求で1989年7月31日に無罪が確定しました。複数の目撃証言と人相も体格も違うのに警察が無視したことや供述した殺害方法と司法解剖した結果が異なっていたからです。
冤罪事件は二度と起きてはいけない
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