目次
- アフリカ大陸の国々について
- 歴史
- 人口・人種
- 食文化
- 宗教
- 身体能力が高い
- 美人大国
- 身体能力が高いと思われる理由
- アフリカの生活環境
- 骨格
- 筋肉の大きさと質
- 混血
- アフリカ人モデル
- オナリン・ユウェラ
- ジェネビーブ・ナジ
- リヤ・ケベデ
- アジエ・テスファイ
- アフリカ人の名前・特徴
- 名+姓
- 父の名・祖父の名が使われることも多い
- スワヒリ語や英語以外にも様々な言語が使われる
- 創世神や宗教ルールに基づいた名前も多い
- 出生曜日を使用する場合もある
- アフリカ人男性の性格・特徴
- 過去に囚われない
- 先々をあまり考えない
- 元気で活発
- 音楽好き
- 男性優位の考え方が多い
- 砂漠地域の男性とは性格が異なる
- アフリカ人女性の性格・特徴
- 働き者
- 献身的
- 強靭な精神を持っている
- 家族を大切にする
- 愛情深い
- アフリカ人の特徴【恋愛編】
- 女性からアプローチすることはほとんどない
- 女性を束縛する
- 地域によって独特なルールが存在する
- 妻の母親・息子の嫁に迫る男性もいる
- アフリカ人の特徴【結婚編】
- 一夫多妻制
- 結婚前提の浮気が多い
- 妻同士の争いがない
- 良妻賢母
- 近年は多くの妻をめとる男性が減っている
- アフリカ人の特徴【セックス編】
- 場所にこだわりがない
- 情熱的で激しい
- テクニシャンが多い
- 女性の奉仕が好まれる
- 体位を頻繁に変える
- アフリカ大陸には多くの習慣や価値観が存在する
アフリカ大陸の国々について
via pixabay.com
アフリカは人類誕生の地と言われるほど長くて古い歴史をもった大陸です。ですが、アフリカのほとんどの文明では文字が用いられておらず、集落や都市の建物は草や木で作られている物が多く、民族の移動も激しかったため、文字や遺跡などから『どんな歴史や文化があったのか?』遡ることが難しいと考えられています。
今回はそんな謎多きアフリカ大陸にスポットを当てて行きますが、まずはアフリカ大陸について歴史や食文化・人種や宗教などについてご紹介します。
今回はそんな謎多きアフリカ大陸にスポットを当てて行きますが、まずはアフリカ大陸について歴史や食文化・人種や宗教などについてご紹介します。
歴史
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アフリカ大陸には大きく分けて、東・西・南・北・中部アフリカの5つのエリアがありますが、それぞれのエリアでは人類が文明を築いてきた形跡や貴重な化石が発見されています。今回は、アフリカ諸国の中でも主要な都市文明とその歴史をご紹介します。それでは早速、東アフリカから見て行きましょう。
東アフリカには、南北7,000㎞にも及ぶ広大な高原地帯が広がっており、この地域にはエチオピア・ケニア、タンザニア、モザンビーク・ジンバブエ、海を挟んだところにマダガスカルなどの国々が存在しますが、中でもエチオピアでは、約440万年前の猿人のもと思われる化石が発見されており、これが東アフリカが人類生誕の地と言われるゆえんとなっています。
エチオピアには紀元前3000年頃より大きな集落が存在し、強大な権力を誇る王国が存在していたとされています。20世紀に一時イタリアの占領下にありましたが、アフリカ大陸で唯一植民地化を退け続けた歴史のある国と言われています。
東アフリカには、南北7,000㎞にも及ぶ広大な高原地帯が広がっており、この地域にはエチオピア・ケニア、タンザニア、モザンビーク・ジンバブエ、海を挟んだところにマダガスカルなどの国々が存在しますが、中でもエチオピアでは、約440万年前の猿人のもと思われる化石が発見されており、これが東アフリカが人類生誕の地と言われるゆえんとなっています。
エチオピアには紀元前3000年頃より大きな集落が存在し、強大な権力を誇る王国が存在していたとされています。20世紀に一時イタリアの占領下にありましたが、アフリカ大陸で唯一植民地化を退け続けた歴史のある国と言われています。
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エチオピアより数キロ南下したところにタンザニアがあります。タンザニアでも多くの人類の化石や旧石器文化の石器とされる物が発見されており、オルドヴァイという大渓谷で発見された約250万年前の人類の化石はホモ・ハビリスと呼ばれ有名です。
タンザニアは広くインド洋に面していることから、7世紀頃にアラブやインド・ペルシャから海を渡ってきた人々が東海岸近くの島々に定住し『スワヒリ文明』という文明を築きます。ですが、1498年ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがインド洋航路を開拓したことを機に、東アフリカ地域はポルトガル人によって制圧され、その後中東のオマーン国が支配するようになりました。
タンザニアは広くインド洋に面していることから、7世紀頃にアラブやインド・ペルシャから海を渡ってきた人々が東海岸近くの島々に定住し『スワヒリ文明』という文明を築きます。ですが、1498年ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがインド洋航路を開拓したことを機に、東アフリカ地域はポルトガル人によって制圧され、その後中東のオマーン国が支配するようになりました。
タンザニアからさらに南へ移動するとジンバブエ共和国があります。ジンバブエ共和国には標高およそ1,000㎞に及ぶ高原地帯とグレート・ジンバブエ遺跡と呼ばれる石造りの建築群があります。高原地帯には疫病が広がりにくいという理由で定住した人々が、11世紀頃に建築群を造るようになったと言われています。
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東アフリカでは草原や高原地帯が広がり山脈もありましたが、一方西アフリカには、中央部にコンゴ盆地を中心とした熱帯雨林とコンゴ川が流れています。この広大な密林地帯には、コンゴ人と呼ばれる人々が集落を形成したことを皮切りに、14世紀から19世紀にかけてコンゴ王国という国が繁栄しました。
そしてコンゴ王国は15世紀後半にポルトガル人がコンゴ川を発見したことにより、ポルトガルと外交関係を結びます。16世紀に入ると欧米文化を取り入れた政策と奴隷貿易により、徐々に欧米文化に蝕まれ、19世紀にはベルギー・ポルトガルの植民地となり消滅しました。
現在はコンゴ共和国・コンゴ民主共和国など多数の独立自治国として存在しています。
そしてコンゴ王国は15世紀後半にポルトガル人がコンゴ川を発見したことにより、ポルトガルと外交関係を結びます。16世紀に入ると欧米文化を取り入れた政策と奴隷貿易により、徐々に欧米文化に蝕まれ、19世紀にはベルギー・ポルトガルの植民地となり消滅しました。
現在はコンゴ共和国・コンゴ民主共和国など多数の独立自治国として存在しています。
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西アフリカにはコンゴ川の他にニジェール川という大きな河が流れています。ニジェール川は西アフリカで貴重な水資源であり、太古より北部に広がるサハラ砂漠から逃れてきた人たちが河沿いに定住し集落を形成してきたとされています。
この地帯では紀元前2000年頃に農耕が行われるようになり、世界農耕文明の起源の1つと言われています。またこの地域では紀元前5世紀頃に製鉄が始まり、民族の大移動と共にこの技術がアフリカ各地に広がって行ったとされています。
ニジェール川流域では数々の国が興亡をくりかえしましたが、中でも8世紀に成立し、黄金や塩の交易で栄えたガーナ王国・13世紀に入りアフリカ北部の交易で栄えたマリ王国・マリ王国と入れ替わるようにして力を持ったソンガイ帝国が有名です。
この地帯では紀元前2000年頃に農耕が行われるようになり、世界農耕文明の起源の1つと言われています。またこの地域では紀元前5世紀頃に製鉄が始まり、民族の大移動と共にこの技術がアフリカ各地に広がって行ったとされています。
ニジェール川流域では数々の国が興亡をくりかえしましたが、中でも8世紀に成立し、黄金や塩の交易で栄えたガーナ王国・13世紀に入りアフリカ北部の交易で栄えたマリ王国・マリ王国と入れ替わるようにして力を持ったソンガイ帝国が有名です。
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ソンガイ帝国が滅びた後は西アフリカ一帯で巨大な帝国は出現することなく、19世紀から20世紀にかけてイギリスやドイツの支配下に置かれるようになり、植民地化されて行きました。
次に、ジンバブエ共和国に隣接する南アフリカ地域を見て行きましょう。南アフリカ地域には、最南端の南アフリカ共和国、ボツワナ、大西洋に面したナミビアという国々がありますが、その中でも南アフリカ共和国は金やダイヤモンドの産地として有名なアフリカ最大の経済大国です。
また南アフリカには「南アフリカの人類化石遺跡群」と呼ばれる世界遺産が存在し、多くの化石と遺跡が発見されていることから人類発祥の地と言われています。
また南アフリカには「南アフリカの人類化石遺跡群」と呼ばれる世界遺産が存在し、多くの化石と遺跡が発見されていることから人類発祥の地と言われています。
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最後にアフリカ北部の歴史です。アフリカ北部にはリビア・アルジェリア、チュニジア・地中海に面したモロッコなどの国があります。先史時代、北アフリカにはベルベル人という民族が広く分布し、現在のチュニジアの内陸で石器文明を築き、方々へ散っていったとされています。
そこへ地中海の交易で力を握ったフェニキア人がチュニジアの沿岸部に定住し、紀元前814年に交易の拠点としてカルタゴ市を築きました。その後カルタゴ市はアフリカ沿岸に商業のための都市を次々築いていきますが、ローマに滅ぼされチュニジア周辺はローマに組み込まれて行きます。
すっかりローマ風に作り替えられたチュニジアの都市でしたが、7世紀頃になるとローマが衰退し、今度はイスラム勢力・アラブ人によるチュニジアの支配が始まります。地中海の覇権争いの舞台となったチュニジアはその後オスマン帝国に属します。
そこへ地中海の交易で力を握ったフェニキア人がチュニジアの沿岸部に定住し、紀元前814年に交易の拠点としてカルタゴ市を築きました。その後カルタゴ市はアフリカ沿岸に商業のための都市を次々築いていきますが、ローマに滅ぼされチュニジア周辺はローマに組み込まれて行きます。
すっかりローマ風に作り替えられたチュニジアの都市でしたが、7世紀頃になるとローマが衰退し、今度はイスラム勢力・アラブ人によるチュニジアの支配が始まります。地中海の覇権争いの舞台となったチュニジアはその後オスマン帝国に属します。
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19世紀にはフランスやイタリアによる侵攻を受け、1878年にフランス保護領となり、第二次世界大戦後の1956年独立を果たしました。
人口・人種
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国連経済社会局の統計によると、アフリカ大陸の総人口は10億2223万4400人とされています。内訳としては、東アフリカが3億426万1455人、南アフリカが5778万425人、西アフリカが3億2404万4321人、北アフリカが2億945万9184人、中部アフリカが1億2668万9015人です。
アフリカには様々な人種が存在していますが、古くからのアフリカ人として、北アフリカにはコーカソイド系の地中海人・最大民族のアラブ人・少数民族のベルベル人が住んでいます。
サハラ砂漠以南のアフリカの大半には、肌の色から黒人と呼ばれるネグロイドが住んでいるため、この地域はブラックアフリカと呼ばれています。アフリカ南西部のナミビア・ボツワナには、かつては広範囲に居住していたコサイン人が少数民族として残されています。
アフリカには様々な人種が存在していますが、古くからのアフリカ人として、北アフリカにはコーカソイド系の地中海人・最大民族のアラブ人・少数民族のベルベル人が住んでいます。
サハラ砂漠以南のアフリカの大半には、肌の色から黒人と呼ばれるネグロイドが住んでいるため、この地域はブラックアフリカと呼ばれています。アフリカ南西部のナミビア・ボツワナには、かつては広範囲に居住していたコサイン人が少数民族として残されています。
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また、アフリカには移民も多く、スペイン領になっているカナリア諸島には15世紀以降移民したスペイン人・ポルトガル人などを祖先とするカナリア人、東アフリカのマダガスカルにはインドネシアから移民したモンゴロイドのアウストロネシア系民族が定住しています。
南アフリカ共和国のケープ地方には17世紀以降ヨーロッパから移民した民族の子孫が住み、ケープ地方の最大民族はオランダ人を主な祖先とするアフリカーナとされています。
南アフリカ共和国のケープ地方には17世紀以降ヨーロッパから移民した民族の子孫が住み、ケープ地方の最大民族はオランダ人を主な祖先とするアフリカーナとされています。
食文化
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アフリカの食文化は、異なる気候の元で生産される食材と、外来民族が持ち込んだ調理方法により非常に多彩で、独自の料理文化としきたりが存在すると言われています。
まずは東アフリカの食文化をご紹介します。東アフリカでは内陸部と海岸部で大きく分けられ、内陸部で農耕を営む民族は自ら栽培した穀物・野菜を食し、穀物で作った餅状の食品ウガリや、デンプン質の食材を主食としています。また、サバンナ地帯で牧畜を生業とする民族は牛乳を飲用しますが、肉は食べないとされています。
一方海岸部に住む人々は、西暦1000年頃よりアラブの商人が持ちこんだ米の調理法や、香辛料、ザクロジュースなどアラブ風の影響と、その後の大航海時代でもたらされたアジアの果物や豚肉・パイナップル・トウモロコシなどの食材やポルトガルの肉の炙り焼・マリネなどの調理法の影響を受けています。
まずは東アフリカの食文化をご紹介します。東アフリカでは内陸部と海岸部で大きく分けられ、内陸部で農耕を営む民族は自ら栽培した穀物・野菜を食し、穀物で作った餅状の食品ウガリや、デンプン質の食材を主食としています。また、サバンナ地帯で牧畜を生業とする民族は牛乳を飲用しますが、肉は食べないとされています。
一方海岸部に住む人々は、西暦1000年頃よりアラブの商人が持ちこんだ米の調理法や、香辛料、ザクロジュースなどアラブ風の影響と、その後の大航海時代でもたらされたアジアの果物や豚肉・パイナップル・トウモロコシなどの食材やポルトガルの肉の炙り焼・マリネなどの調理法の影響を受けています。
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また19世紀に入り、東アフリカはイギリスの植民地に組み込まれたことで、イギリス人に雇われたインド人が、インド式のカレーやレンズ豆のスープ・チャパティー・紅茶などを持ちこみました。このように現在の東アフリカ海岸部の料理は、アラブやポルトガル・インドの影響を受けて形成されています。
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