2019年8月27日 更新

浜田雅功の高校時代が強烈?ダウンタウンのほっこりエピソード

誰に対してでも容赦ないツッコミでお馴染みのダウンタウンツッコミ担当、浜田雅功さん。相手が大御所であっても激しいツッコミを入れる、なのに愛されるキャラ。高校時代のエピソードも強烈です。この記事ではダウンタウンのほっこりエピソードとともに紹介していきます。

浜田雅功のプロフィール

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本名:濵田 雅功(読みは同じ)
誕生日:1963/5/11
出身地: 兵庫県尼崎市(大阪市浪速区で生まれたがすぐ引っ越している)
血液型 :A型
身長:165cm
事務所:よしもとクリエイティブエージェンシー
コンビ名:ダウンタウン( 相方は松本人志)

ダウンタウンのツッコミ担当でNSC第1期生。吉本興業で今最も活躍しているコンビの片割れです。 奥様は小川菜摘さん。長男はミュージシャンのハマ、オカモトさん。相性は「浜ちゃん」激しいツッコミで、物怖じしないキャラでお馴染みの浜田雅功さん。その性格は高校時代から変わっていないようです。

浜田雅功の出身高校

まずは簡単な経歴から。 浜田雅功さんは1982年にNSC第1期生として入校されました。同じ年に相方の松本人志さんとコンビを結成されています。 1987年に「 夢で逢えたら」に出演して一気にブレイクしました。 sそもそも浜田さんがNSCに入ったのも大学受験に失敗したから。

就職が決まっていた松本人志さんを公園に呼び出し吉本興業に入社することを説得したそうです。ではNSC に入る前の浜田さん、その出身高校となぜその高校に入学したのかを見ていきましょう。

浜田雅功の出身高校

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浜田雅功さんは1979年に日生学園第一高校(現:桜丘高校)へ入学。1980年に日生学園第二高校(現:青山高校)が開設されたため転校し、1982年に卒業しています。日生学園は超スパルタ高校としてもよく知られています。高校2年の頃、日生学園第二高校が開設されたためそちらに転校しています。

日生学園は三重県津市白山町八対野のに本部がある学校法人。1990年代まではスパルタ教育を行っていたことで有名でした。学校内で暴力事件や不審死などが相次ぎ、1985年に教師が学園を告発し週刊誌に掲載され社会問題として取り上げられました。

浜田雅功が日生学園高等学校に入学した理由

なぜ兵庫県出身の浜田さんが三重県にある日生学園高校へ通うことになったのか、それ日生学園の特色にあります。日生学園当時、問題児を集める学園として有名でした。親や学校が手に余る生徒たちが入学する学校であったため 、当時かなりやんちゃだった浜田さんも入学をせざるを得なかったのでしょう。

きっかけ 浜田さんが人の家のドアをノコギリで切ったこと。友達の家に行ったら留守で
どうしても入りたかったのでドアを切った。当時そんなことをして濱田さんに対し浜田さんの父が激怒し「 厳しい学校に入って、真人間になって帰ってこい」とのことで浜田さんの父が入学を決めたと言われています。

浜田雅功の出身高校の強烈エピソード

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浜田さんの母校、日生学園。刑務所と変わりないぐらい厳しめの学校として有名でしたが、どれほど厳しかったのかここからはその強烈エピソードを紹介していきます。日生学園卒業生の中には自衛隊に入った方もいますが「自衛隊の方がマシ」と言い切るほどかなり厳しい学校だったようです。

それほど厳しいといわれた全国でもトップクラスのスパルタ学校。どんな規則があったのでしょうか?では、紹介していきます。

毎日のマラソン

日生学園では日曜日以外毎日、下校時に約10キロの集団マラソンが行われていました。寮生活であったため 寮単位で走る距離、走るコースなどは変わっていましたが基本マラソンは行われていました。 これは東学園第2でも引き続き行われており、こちらも寮によっては距離やコース、また走る日も変わっていました。

寮によってはマラソンというよりもダッシュに近い走り方やジョギングレベルの走り方などもあったそうです。この学園は共学であったため女子寮もあり、女子生徒も同じように走っていました。

校外への外出は月1回のみ

数珠屋SkyWing on Instagram: “冬になると思い出します母校。 三重県の山中にあり当時は雪が早い時期から降り、玄関前の広いタイル?レンガ貼りの地面を雑巾で磨きました。 ご飯は1年生の内はベタ飯と呼ばれるお釜の下の方のお米感がなくモチのようなご飯を食べ、その後は掃除。…” (580458)

浜田さんが在学中の当時、日生学園では校外への外出は月一度の帰宅時以外、許されることはなかったそうです。そもそも日生学園寮生は校外に出るには許可がいり、勝手に出ることが許されていません。 外出を許されるのは四つの方法のみ。 一つは帰省 春休みは5日、夏、冬休みで20日間が許されています。

親族に不幸があった場合も親の場合は危篤でも帰ることを許されますが、兄弟や祖父母では危篤では許可が出ず、亡くなって初めて帰れると言うルールです。しかも二日間しか許可がおりません。それ以外は一切の許可は出ません。いまだと裁判沙汰になってもおかしくないルールでした。

脱走を試みるもペナルティで12時間の正座

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日生学園の厳しいルールについていけず、結構頻繁に脱走するものがいたそうです。それこそ2月に1回はどこかの寮生が脱走を試みていたようです。日生学園は山奥にあるので、脱走しても逃げ出すのは難しいですが、それでも逃げ出す方は必死だったようです。

脱走を試みたとしてもすぐに捕まってしまい、しかもその後のペナルティがコンクリートの床の上で12時間連帯責任で正座というものだったそうです。 今では考えられませんが、そういったことも日常茶飯時で行われていたそうです。

体罰は日常茶飯事

Stop Fear Violence Against - Free photo on Pixabay (580493)

日生学園では1990年まで今ではあり得ない体罰も日常茶飯時で行われていました。 基本先輩の命令に対しては絶対服従で先輩や教師からの体罰は日常茶飯時。パイプ椅子で殴られることはもちろん 、一晩中の正座、ベルトのバックル部分で頭を叩かれたり、ホッチキスを蓋をしめないでそのままたたかれる(もちろん針が刺さる)など。

今の時代なら懲戒免職もののものでも平気で行われていました。さらに風邪で熱が出たとしても四十度の高熱を叩き出しても病院は行かせてもらえず、市販薬のみ支給されるだけ。そのため脱走者及び自殺者が 多発していたようです。

素手でトイレ掃除

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