2019年3月26日 更新

ブリカスの意味と歴史背景は?阿片戦争と海外の反応は?

「ブリカス」という言葉と意味をご存じですか?イギリスの帝国主義、阿片戦争、またそれに対する海外の反応などを通して歴史について学んでいきましょう。

反省しない

Howitzer Mortar Grenade - Free photo on Pixabay (124326)

アメリカの大量破壊兵器所持を口実にした、イラク戦争がとんでもない戦争であったことはその後明らかになっていきました。
アメリカ国内でも、チョムスキーなどイラク戦争を批判する識者はずいぶん出ました。

イギリスのブレア首相も、大量破壊兵器所持という口実がデマであったことは認めて謝罪しましたが、参戦したことについての謝罪はしていません。
そもそも、中東の混乱を招いたのは歴史的にたどればイギリスの三枚舌外交にあるのですが、そういった歴史的な事実に対する反省は見られないのです。

海外の反応

Old Newspaper Retro - Free photo on Pixabay (124336)

それでは、イギリスに対する海外の反応はどのようなものか、みていきましょう。

アメリカの反応

New York City Brooklyn Bridge - Free photo on Pixabay (124344)

アメリカでは1773年に、「ボストン茶会事件」が起こります。
イギリスの東インド会社の、アメリカへ輸出する紅茶を拒否し、海に投げ込んだ事件です。

この事件から、アメリカのイギリスからの独立の気運は高まっていきました。
また、コーヒーを愛用するアメリカ人も増えていきました。

イギリスのライフスタイルの拒絶です。

中国の反応

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1993年のイギリスの中国に対する香港返還によって、阿片戦争による禍根は終止符を打たれたかもしれません。
また、イラク戦争の失敗によってひびの入った英米関係ですが、そんな中、習近平は英国を訪問し、最大級のもてなしを受けました。

中国主導の、アジアインフラ投資銀行にも率先して参加したのはイギリスです。イギリスの参加によって、フランス、韓国なども参加するようになりました。

中国の経済成長と、チャイナマネーにすり寄る英国。利害関係でつながっているために、またいつどうなるのかはわかりませんね。

アルゼンチンの反応

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1983年3月から三か月にわたり、イギリス領フォークランド諸島の領有をめぐり、イギリスとアルゼンチンの間で紛争が起こりました。
アルゼンチン海軍が、サウス・ジョージア島に二度にわたって寄港、民間人を無断で上陸させたため、イギリスはアメリカ、NATOの支援を受けて、アルゼンチン軍と衝突しました。

1970年まで、イギリスは財政難に陥る、いわゆる英国病になり、領土の維持が難しくなっていたため、アルゼンチン側の医療制度のサービスによって維持されていた状況だったのです。

植民地を次々手放し、斜陽の国になっていたイギリスが、最後の威信を見せたフォークランド紛争です。

インドの反応

Person Woman India - Free photo on Pixabay (124525)

イギリスから見たら、インドの統治は、鉄道を敷設した、インフラを整備して近代化してやった、軍事力で守った、何が悪い、といった上から目線のものでしょう。ところが、その鉄道はインド駐在のイギリス人のためのものであって、インド人のためのものではありません、また鉄道から得られる利子はイギリスに流れていたのです。

つまりインド人が汗水たらして働いたお金は常にイギリスに流出していました。
ビクトリア女王から信頼を受けていた、帝国主義者のディズレリーにはこんな言葉があります。「・・・・インドの鍵はロンドンにある。すなわち、統治権の権威、議会の勇気と活力、自由にして創意に富み、決断力のある民衆の無尽蔵な資力。これこそインドの鍵なのである。」

イギリスはインドに投資することによって、その利益を吸い上げていたのです。インドの利益はイギリスのためのものだったのです、そこには人種的な優越意識と、近代化した国の傲慢さが露骨に見られます。そして、これが帝国主義の特徴なのです。

安い賃金による労働力の搾取です、これが国内に向けられるといわゆる「ブラック企業」になりますね?

フランスの反応

Paris France Eiffel Tower - Free photo on Pixabay (124636)

1337年のフランス王朝とイングランド王朝の対立の100年戦争(ジャンヌ・ダルクが出てきます)から、フランスとイギリスはずっと対立してきました。いわゆる英仏戦争です。

また、イギリスとフランスには植民地獲得を巡っても熾烈な戦いがありました。イギリスが勝利して、イギリスは広大な植民地を獲得することになります。

両国には、近いだけに近親憎悪のような複雑な感情があるのかもしれませんね。

日本人の反応

Mt Fuji Volcano Mount - Free photo on Pixabay (124909)

それでは、日本とイギリスの関係はどのようなものでしょうか?時系列的に見ていきましょう。

明治の日本とイギリス・生麦事件

The Japanalyst - Naoto K. on Instagram: “. Why did samurais have mustache on their face guard? Because they wanted to show themselves older than he really was. In Japanese culture,…” (125029)

1858年、イギリスと江戸幕府は日英修好通商条約を結びます。
・江戸に在日英国代表を設置
・条約港の設定
・英国人の居住を許可

阿片は持ち込まれなかったものの、これは日本にとって不平等な条約でした。

1862年には生麦事件が起こります。
薩摩藩、島津久光の行列に、観光で来ていたイギリス人が割り込んでしまったために起った事件でした。藩士たちによってイギリス人の一行は殺傷され(一人死亡、二人重傷)
尊王攘夷運動はさらに盛り上がりました。

1863年には薩英戦争が起ります。イギリス艦隊は思いのほか、損害を受け横浜港に戻ります。この事件により、日本は侮れない国という印象を諸外国に植え付けることになりました。

明治の日本とイギリス・近代化に向けて

Cherry Blossoms Landscape Spring - Free photo on Pixabay (125042)

1886年にはノルマントン事件が起こります。
座礁したイギリス船ノルマントン号で、日本人乗客25名が見殺しにされた事件でした。
この事件をきっかけに、治外法権の撤廃を要求する気運が高まります。

1894年
日英通商航海条約が結ばれます。
治外法権の撤廃と不平等の是正です。
イギリス側が外務大臣、キンバリー、日本側は伊藤博文、外務大臣は陸奥宗光でした。

明治の日本はごく短期間の間に、奇跡的に近代化を成し遂げました。これは世界的にも珍しいケースです。

イギリスに留学した夏目漱石は、イギリスで民主主義とその根本にある個人主義を学んできました。民主主義には、国家道徳より、なによりも個人の良心が必要なのだと感じたのです。国家というものは利害を巡って醜い争いを起こすからです。

個人主義が、自分さえよければという利己主義とエゴイズムになれば、日本はとんでもないことになると考えた漱石。はたして漱石の杞憂はどうなったでしょうか?

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