2019年9月23日 更新

リマ症候群とは?在ペルー日本大使公邸占拠事件についても

誘拐や監禁の場合、通常と異なる心理状態になるのは被害者も加害者も同じです。被害者ばかりに注目が集まりますが、実は加害者側もリマ症候群と呼ばれるPTSDの一種を患うことがあります。今回はリマ症候群を紹介し、実際に起こった悲しい事件を紹介します。

犯人が被害者に特別な感情を持つ症状

Pirate Knife Captain - Free photo on Pixabay (649785)

監禁や誘拐など、日常とはかけ離れた状況では犯人も心理状態が通常ではなくなります。そのため、犯人が被害者に対して特別な感情を抱くこともあり、これは心の病気ではなく、PTSDとして扱われています。

この「リマ症候群」と呼ばれる症状は珍しいものではなく、世界でもこのリマ症候群が起こったケースは多く報告されていますが、この症候群について知らない人も多いです。

今回は、リマ症候群がどのようなものなのかを紹介するとともに、比較されやすいストックホルム症候群についても詳しく紹介します。

リマ症候群の概要

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リマ症候群という言葉を聞いたこと無い人も多いのではないでしょうか。ここではリマ症候群の意味やその由来について紹介します。

犯人が被害者に特別な感情を持つ

Stop Fear Violence Against - Free photo on Pixabay (649788)

リマ症候群とは、犯人が人質を監禁している間に、人質に対して親近感や信頼関係のような特別な感情を持ち、それまで攻撃的だった犯人も温和になることを指します。

犯人が人質の人数に比べて極端に少ない場合や、犯人が人質よりも極端に教育のレベルや生活レベルが低い場合に起こりやすいとされています。監禁の期間が長期間になると人質と犯人の間に交流が生まれることは珍しくなく、犯人が人質から学ぶことがあると特別な感情を持ちやすいようです。

リマ症候群の名前の由来

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リマ症候群という名前がついたのには、1996年から1997年にかけて起こった在ペルー日本大使公邸占拠事件が由来となっています。

これはペルーの首都リマで起こった事件であり、レセプション会場に覆面をしたトゥパク・アマル革命運動の構成員が襲撃し、関係者を600人ほど人質にしました。

この最中、犯人たちは人質に感化され、徐々に攻撃的な態度を改めるようになったようです。また、それが影響して段階的に人質が解放されました。この事件がきっかけとなり、リマ症候群と呼ばれるようになりました。

在ペルー日本大使公邸占拠事件とは

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在ペルー日本大使公邸占拠事件は当時在ペルー日本大使館で働いている人が人質にとられたこともあり、政府関係者や駐在員が巻き込まれたことから日本でも大きく報じられました。

また、すぐに解決せず、発生から人質解放まで約4か月間と長期に渡ったことも注目された要因となりました。

ここでは、在ペルー日本大使公邸占拠事件について詳しく紹介します。

首都リマで起きたテロ

War Desert Guns - Free photo on Pixabay (649792)

在ペルー日本大使公邸占拠事件はペルー共和国の首都リマで起きました。リマは1535年にインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロによって築かれました。

当初の名前は、「諸王の街」を意味する"La Ciudad de los Reyes"でしたが、市内のリマック川からリマという名前がつけられたと言われています。第二次世界大戦後にペルー国内からリマに大量の人が移り住んできたことで一気に大都市へと変化しました。

砂漠地方に属し、年間の降水量はエジプトのカイロよりも少ないですが、冬は海霧で湿度が100%に近くなります。

事件の流れ

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1996年12月17日の夜、日本大使公邸で天皇誕生日祝賀レセプションが行われていました。午後8時頃、空き家であった隣家が爆破され、ほぼ同時に大使公邸に覆面をした一団が侵入・占拠しました。

犯人たちの要求は「逮捕、拘留されているMRTA構成員全員の釈放」、「国外に退避するまでの人質の同行とそれに対するセーフ・コンダクト」、「アルベルト・フジモリ政権による経済政策の全面的転換」、「身代金の支払い」であったようです。

平和的解決を進めていましたが事態は収拾せず、翌年4月22日に武力突入で人質を救出しました。

人質の数

Chains Feet Sand - Free photo on Pixabay (649796)

12月17日に犯人たちが日本大使公邸に押し入った時、大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員らおよそ600人が人質となりました。

ただ、事件を起こしたMRTAはそれほど多くの人数を人質にとることを考えておらず、女性や老人、子供、アメリカ人など200人以上が早期に開放されました。その後も人質の解放は続き、1997年1月には約100人、4月には約70人になりました。

最終的には大使館関係者やペルー政府関係者、日本の大手企業の駐在員らとなり、武力突入の際には重軽傷者を出しながらも殉死した3人を除いて全員が救出されました。

事件のその後

Truck White Vehicle - Free photo on Pixabay (649800)

人質が救出された後、監禁していた14人の犯人たちは全員がその場で射殺されました。救出される間に殉死した特殊部隊隊員のバレル中佐とヒメネス中尉のため、日本から多額の義損金が寄せられ、その後リマを訪れる国務大臣は必ず2人の墓を訪れています。

監禁場所となった日本大使公邸は同じ地区内で移動し、以前よりも強固なセキュリティで周りから入れないようになり、レセプションやパーティーも行われなくなりました。

事件を起こしたMRTAは世界中から非難が殺到し、国内外からの支援がなくなったことで事実上の活動停止状態となりました。

引き金を引けなかった少女たち

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